一章 王女の婚約と忍び寄る陰謀 9/10


     ■


 ハーピシアの寝る支度を整える中で、イレブンはふと彼女の背中に目を留めた。いつもドレス用のインナーで隠れていて見えなかったが、大きな傷跡がある。


「ハーピシア様、こんなお怪我をどこで……」


「あら? そうか、お前は初めて見たのね」


 柔らかい寝間着に着替えたハーピシアは微笑み、ベッドに腰かけた。隣に座るよう手で示されて、イレブンも並んで座った。


「今年の、春の終わりぐらいだったわ。公務で前線基地の一つを訪れたの。私が出向いたところで傷付いた彼らの何が癒されるのかと思ったけれど、皆さん笑顔で迎えてくださったわ。でも、どこから情報が漏れたのか、その基地が襲撃されてしまったの」


「……殿下を狙ってのことですか」


「そのようだったわ。……私にも何かできればよかったのだけど、戦う皆さんの後ろで逃げるしかなくてね。もう逃げ場がなくなった時、隊長が白くて大きな鳥を連れてきたの。彼から『必ずハーピシア様をお守りしろ』と言われて頷いて、私に寄り添ってくれるぐらい、とっても賢い鳥だったわ」


 それを聞いて、イレブンはすぐにアマルガムだと判断した。アダストラ軍で採用されている動物は犬だけだ。おそらくハーピシアを怖がらせないように、そしてすぐに逃がせるように、鳥の姿を取らせたのだろう。


「……その時、辺り一帯が爆発したわ。爆弾か、爆撃か、一瞬のことで私にも分からなかったのだけど、背中が燃えるように熱くなって……それで怪我をしたの」


「そうだったのですね」


「耳鳴りがして、何も聞こえなくて、でも鳥がずっと私に寄り添っていることだけは分かったわ。だから私、鳥に向かって『どうかアダストラの民を守って』と必死にお願いしたの。鳥は私をじっと見つめ返してくれた。お前と同じ鋼色の、静かな瞳だったわ」


 ハーピシアは小さく笑って、イレブンの瞳を覗き込んだ。


「……それで気絶してしまって、後のことは何も覚えていないのだけど、あの静かな眼差しだけはずっと覚えていたの。だから、お前の目を見た時に、とても懐かしくなったわ」


「殿下の命を救った鳥と同じ目ということは、光栄なことです。殿下はその後、どなたかに保護されたのでしょうか」


「無事だった兵士が私を見つけて、逃がしてくれたそうよ。鳥はどこにもいなかったと聞いて、残念だったわ。……せめて生きていてくれたらいいのだけど」


 ハーピシアは心配そうな顔で俯く。イレブンはその横顔をじっと見つめた。


 アマルガムが爆発程度で損傷するとは考えにくい。ハーピシアを守ったからこそ、彼女は背中の傷だけで後遺症もなくこうして過ごしているのだろう。


(……もし爆発で、殿下以外が死亡していたら、指揮権は────)


 イレブンは弾かれたように立ち上がった。



 感知範囲外の高高度から、流星のように反応が駆け抜ける。


 アマルガムだ。



「殿下、女官長をお呼びください。私は行きます」


 それだけ言って、イレブンは窓を開け放って外に飛び出した。


「イレブン?! お待ちなさい、ここを何階だと思って────」


 ハーピシアの悲鳴を置き去りに、イレブンは屋根伝いに走る。飛翔する影は鳥のようでしかし歪だ。影を追って尖塔の先を踏み、大きく跳躍する。


 アマルガムの影が急降下した先へ、イレブンも躊躇なく身を投げた。


     ■


 女官の持った灯りが、柔らかく周囲を照らす。


 テオは女官の後ろを歩きながら廊下に目をやった。夜間は照明が絞られて薄暗く、人の気配も遠い。化粧柱から今にも何かが飛び出してきそうな雰囲気があった。


 案内されたのは第二王女の部屋より一つ下の階だった。近衛兵が廊下の端に立っているはずだが、今夜はその姿がない。


「化け物を目撃した者は、ちょうどこの扉から出たところを見た、とのことでした」


 女官は扉の前で立ち止まった。付近には花瓶を飾られたコンソールテーブルと消火器があるぐらいで、白い化け物と見間違えそうな物はない。部屋はただの会議室で、静まり返っていた。


 では外かとテオは窓に近付いて覗き込んだが、白い物は見当たらなかった。やはり目撃者の気のせいだったのだろう。あるいは、窓に反射した自分の姿や、偶然落下したシーツやカーテンを見て勘違いしたのではないか。


 女官の持っている灯りを見ながら、テオはそう見当付けた。だが窓に反射する姿が自分一人のものだけであることに気付いて、窓から離れて辺りを見回す。


 灯りはいつの間にか、コンソールテーブルに置かれていた。


 女官の姿はどこにもない。


 その場を離れるような足音もしなかったが、この短時間で一体どこに消えたというのだ。


(……まさか目の前で失踪したとか言わないよな?)


 テオは拳銃を抜き、灯りに一番近い扉に近付いた。人の動く気配はないが、室内に身を隠したのではないか。慎重にドアノブに手をかけようとした次の瞬間、視界の端に影を捉えた。



 獣のように低い姿勢。光を反射する物に気付き、テオは咄嗟に拳銃を盾にした。


 金属の衝突音。鋭いナイフが銃身に傷を付ける。



 テオはまばたきもなく襲撃者を睨んだ。


 相手は小柄だった。黒装束で全身を覆い、人相は分からない。初撃を外し、襲撃者はさらに鋭く踏み込んでくる。仰け反った鼻先をナイフが掠めた。銃を構える隙がない。


 ならば対処法は一つだ。


 テオは相手の動きにだけ集中した。動きは素早いしナイフの扱いに慣れているが、陸軍の指導教官には劣る。ならば必ず機会はある。


 防戦一方のテオに焦れた襲撃者が一呼吸置いて間合いを詰めた。


 襲撃者が大きく踏み込み、テオの手から拳銃を弾き飛ばす。


 今だ。


 テオは拳銃を離した手で相手の胸倉を掴んだ。踏ん張ろうとした脚を払い、背負い投げを決める。


 背中から床に叩きつけられた相手は、その衝撃でナイフを落とした。すぐさまナイフを蹴り飛ばし、襲撃者を床に押し付けたまま腕を捻り上げる。


「今までの失踪は全てお前の仕業か?! 全て吐いて、……────」



 視線を感じて、テオは顔を上げた。



 それは、いつから目の前にいたのだろうか。


 天井に張り付いた怪物が、じっとテオを見つめている。


 一見、コウモリが皮膜を広げて天井に留まっているようだった。


 だが梁と壁に突かれた人間の手があり、今まさにテオに伸ばされた手は二本の腕を継ぎ足していた。大きな目と頭部だと思った場所には、鳥の頭と白く濁った人間の顔が並んでいる。垂れ下がった尾羽かと思った影は、力なく垂れた人間の脚だ。



 異形の怪物は魔導抑制機の光を避けて、ゆっくりと天井から壁伝いに下りてきた。その視線はテオではなく、襲撃者に向けられる。襲撃者も息を飲んだきり、凍り付いていた。


 だが不思議と、攻撃的には見えない。


 そこへ、小さな足音が駆けてきた。見れば、女官の制服を埃と煤で汚したイレブンだ。彼女はテオを見て軽く目を見張ったが、すぐに怪物に歩み寄る。怪物は大人しいもので、イレブンの言葉を聞くと静かに壁際で丸くなった。


「……イレブン、それは……アマルガムで、間違いないか?」


「はい。ですが、攻撃信号は数秒前に消えています。何があったのですか」


「こいつが急に襲い掛かってきたから、取り押さえたんだ」


 今更逃げようともがく襲撃者の両手に手錠をはめると、イレブンが黒い覆面を奪い取った。あらわになったのは、先ほどまで案内していた女官の顔だ。


「騙しやがったなこの女!」


「……なるほど。やはりアマルガムの主人は、ハーピシア様ですね」


「なに? 第二王女が、どうしてアマルガムなんて……」


 みちみちと肉の引き千切れる音がして、テオは怪物──アマルガムに思わず目をやった。床に引きずっている左翼が根本から裂けている。


「ど、どうしたんだ。負傷したのか?」


「いえ、質量超過です。……そうですね、食べ過ぎて消化不良を起こしています。吐き戻せば、問題なく元に戻りますよ」


「……ずいぶん簡単に言うが、吐き戻すってここでやって大丈夫なことか?」


「むしろ、この場で行った方がよいでしょう。実行許可をいただけますか」


 イレブンがそう言うなら、信じるしかない。テオが頷くと、イレブンはアマルガムの傍らに立ってその巨体を支える。


「保存個体を解放し、規定質量の維持を実行せよ。ただし擬態は維持するものとする」


 イレブンの命令を受けて、アマルガムの目が赤く点滅する。


 やがて、白い腹が大きく裂けた。人間サイズの繭が次々にこぼれ落ち、床に六個並ぶ。


 繭は自ら解けてアマルガムの肉体に戻っていった。気付けば床には、失踪したはずの六人が倒れている。


 テオは襲撃者を床に放って、順番に失踪者の首筋に触れた。脈は弱いが呼吸は安定している。生きているのだ。


 安堵の息をついたテオは、鳥の羽ばたきを聞いて顔を上げた。アマルガムは白く大きな鳥となって、テオを見つめていた。


「……なるほど。『空飛ぶ白い化け物』は実在していたわけだ」


「はい。高高度で待機し、何者かがアダストラ国民の攻撃を意図して動くと、それを阻止するために城へ戻っていたようです。出入口は暖炉ですね」


「盲点だったよ。……この廊下にいるはずの近衛兵は?」


 テオが気になって尋ねると、イレブンは小さな声で答えた。


「階段の方で、喉笛を刃物で切り裂かれて亡くなっていました。死後一時間以内です」


「……ここで俺を仕留めて、失踪は全部自分による殺害事件として片付けるつもりだったのか。今までの注意深さが嘘みたいに杜撰な計画だな? ええ? おい」


 襲撃者を睨んだが、彼女はふてぶてしく目を逸らすだけだった。おそらく今までも、六人が動くのに合わせて近衛兵や侍従の注意を引いていたのだろう。聞かなければならない話は多そうだ。


 テオが襲撃者の腕を掴んで立たせると、イレブンは魔導抑制機の間でアマルガムを待機させた。アマルガムがうずくまると、その拍子に乱れた羽毛と背中が見える。


 テオは絶句した。アマルガムの背中は焼け焦げ、砕けたコアが露出していた。

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