アマルガム・ハウンド3 捜査局刑事部特捜班

一章 王女の婚約と忍び寄る陰謀 1/10


「お前、恋をしたことはある?」



 凛とした声が、少女の花弁に似た唇からこぼれる。


 アダストラ国第二王女ハーピシア・ミネルヴァ・オーグリアムは、ミルクに薔薇を含ませたような頬に憂鬱を浮かべていた。


 ピンクブラウンの髪にアンバーの瞳、愛らしい容姿と相まって、春を体現したかのようだと褒めそやされることの多い王女だった。


 彼女の見つめる鏡越しに、女官は顔を上げた。王女とは対照的に、女官はまるで冬の化身だ。髪も肌も雪のように白く、瞳までも曇り空に似た色をしている。


 女官は質問の意図を探るような沈黙を経て、口を開いた。


「恋をしたことはございません」


「本当に? 一度も?」


「はい。一度も」


 女官は淡々とした声で答えるだけだった。彼女の受け答えは、彼女のまとう真新しい制服と一緒だ。きちんとしているけれど、それだけ。面白味がない。


 ハーピシアは口を尖らせた。彼女はまだ十五歳。好奇心にはかなわない年頃だった。


 同世代やそれに近い女官と話をする機会はそう得られない。ハーピシアはどうしても、城の外の話が聞きたかった。


 じっとハーピシアは鏡越しに女官を見つめた。手元に集中した女官の、伏せられた睫毛の淡い影。化粧っ気のない目元を見ていると、凍った湖を思い出した。


「……では、恋をされたことはある? お前ほど美しければ、一目惚れする者もいたでしょう?」


「いくつか、事例はございます」


 女官は手を止めて、鏡越しにハーピシアと目を合わせた。はたりと、睫毛が上下する。ハーピシアはその時初めて女官がまばたきするところを見た。


「ハーピシア様は、恋に興味がおありなのですね」


「そうなの。だからお前の話を聞かせてちょうだい」


「……では、とある将校の話を」


 女官はハーピシアの髪を丁寧に編みながら、静かに口を開いた。



 女官は、元は陸軍に所属していた。


 魔術と砲弾の飛び交う戦場で、彼女は一人の将校と出会ったという。


 彼女は将校の右腕として、数々の戦場をともに走った。激しい戦闘、厳しい任務を潜り抜けた後に、将校は彼女に愛を告げ、彼女はそれに応じた。二人は戦場の片隅で、部下の目を盗むようにして恋を温めた。



 抑揚に欠けた声とは裏腹に、語られる恋はロマンスに溢れていてハーピシアの心を惹いた。真新しい制服の向こうがやっと見えた気がしたのだ。


「それで?」


「……将校は、ある時気付いたのです。その女は自分の想いに応じたのではなく、ただ、自分の望みを反映して動いていただけなのだ、と」


 無表情のまま言われた言葉の意味を、ハーピシアはすぐに掴むことができなかった。鏡越しに、女官がリボンを取り出すのが見える。


「お前の恋人としての振る舞いに、満足ができなかったということ?」


「いいえ、殿下。彼は自分の恋が、鏡像相手の一人遊びだと我に返ったのです。愛し合っているのではなく、ただ、人形遊びをしていただけなのだと気付いて」


「……将校は、気付いて、どうしたの?」


「彼は虚しい行いに耐え切れず、別の戦場へ向かいました」


 女官はそう語った。陶器人形のように冷たく整った美貌で語られると、物語のようなのになんだか現実味を帯びて聞こえる話だ。だがハーピシアは眉根を寄せる。


「勝手な男だこと。勝手に惚れて、勝手に期待して、勝手に冷めるだなんて……」


「そうおっしゃらず。……彼は私がどういうモノか、戦いの中で忘れてしまったのです。戦場で追い詰められ、ほんの一時、甘い夢を見た。それだけの話でございます」


 女官は涼しい顔で言い切った。ハーピシアの髪をまとめ、リボンで飾る手付きに迷いはない。過去のこととはいえ、傷になりそうな話だというのに。


「……お前は悔しくないの? そんな風に捨てられるだなんて」


 女官が顔を上げた。ハーピシアの発言は予想していなかったらしい。灰色の瞳をまたたかせて、女官は再びハーピシアの髪を整える作業に戻ってしまった。


「悔しいとも捨てられたとも捉えておりません。私はただの鏡でございます」


「鏡?」


「人の望みを映し、望む結果をもたらし、次の任務地へ向かい、また別の人の望みを映す……そのように作られた鏡でございます」


 まるで自我のないような言い方だった。彼女がどんな人なのか、見えたと思ったのにまた霧の向こうへ消えてしまったように感じる。


「……別れを告げられた時も、きっと物分かりよく離れたのでしょうね」


「こちらから申し上げることも特にございませんでしたので」


「……私もそんな風に、物分かりよく応じられるかしら」


 ハーピシアはぽつりと呟いた。



 十五歳の誕生日を迎えてから、縁談の話が来るようになった。ハーピシアの嫁入りを通じて両国の関係を強めようという政治的な話だ。形式上、ハーピシアも結婚相手の希望を聞かれることはあるけれど、ハーピシアの意見が汲まれたことはほとんどない。


 結婚相手が決まった時、城の庭園は夏の日差しに輝く緑で溢れていた。今は、窓の外に紅葉を迎えた木々が立ち並ぶばかりだ。そうして刻一刻と、結婚の日が近付いてくる。


 女官の恋物語に胸を躍らせていたのが嘘のようだ。鏡に映るハーピシアの顔は、不安と憂鬱に歪んでいる。国民に愛される可憐な姫の美貌が台無しだった。


 アダストラ国は王制を廃止して久しいが、それでも王族の一人として生まれた以上は、国の繁栄と平和のために献身するべきだと誰もが言う。ハーピシアは大恋愛の末に結婚した両親に憧れているというのに、教育係はそれを叱責するばかりだ。国益となる選択をせよ、と迫られる一方で息が苦しい。




「……政略結婚だなんて、時代遅れだわ。私の結婚で本当に上手くいくのかしら。もし皇太子殿下に気に入っていただけなかったら、縁談も同盟関係も破棄されてしまうの? 私、そんな風に捨てられてしまったら生きた心地がしないわ」


「ハーピシア様。皇太子殿下は聡明でお優しい方でございます。そのような子供じみた理由で婚約を解消するようなお方ではございませんよ」


「分からないわ。お前の言う『望みを映す鏡』に私もならなければいけないのではないの?」


「代替品に過ぎない私はともかく、ハーピシア様はこの大陸で唯一無二のお方。わざわざ鏡にならずとも、皇太子殿下はあなた様の手を取る幸運に歓喜することでしょう」


「……そうかしら。そうだといいけれど。ああ、嫌だわ」


 ハーピシアは深く溜息をついた。


「結婚前は、誰もがこんな風に苦しみ、憂鬱になるものなのかしら。恋より先に結婚が決まったからかしら。ただでさえ、今はそれどころではないというのに……」


「ハーピシア様にとって、結婚も重要な事柄でございます。見知らぬ土地に、一人で嫁いでいかれるのですから」


 女官の小さな手が、そっとハーピシアの肩に触れた。冷たい手。まるで血の気を感じられないその手に、ハーピシアも自分の手を重ねた。


「……お前までいなくなってしまっては嫌よ。私の周りにはもう、お前しかいないのだもの。爺やも、女官も、みんないなくなってしまった……」


「お任せください。捜査官が真相を明らかにするまで、御身は私がお守りいたします」


 ハーピシアは憂鬱な顔をした自分と鏡越しに睨み合うのをやめて立ち上がった。女官が椅子を下げ、ドレスの裾を整える。


 この手際のよい新人の女官とは「真相が明らかになるまで」という期限付きの関係だ。


 今、結婚などという将来の不安よりも身近に、脅威が迫りつつあった。


 ハーピシアに仕える女官たちが怯えて、一斉に休暇を取るほどに。


「まだ、何も掴めていないのだったわね────イレブン」


「はい、殿下。捜査に進展がありましたら、速やかにご報告いたします」


 見た目だけであればハーピシアと同い年に見える女官は、軍人らしい機敏な動作で扉を開け、ハーピシアを送り出した。


 冷たい美貌、華奢な肢体、「十一番」という名前。


 どれを取ってもハーピシアにとっては不思議な少女だった。


 彼女は謎めいていて、どんな人物なのかはさっぱり分からない。しかし、よく仕事ができて忠実であることだけは事実だった。


「……分かっているのであれば構いません。お前はお前の仕事をなさい」


「承知いたしました」


 短く応じた女官は、頭を垂れてハーピシアを見送った。


 ハーピシアは軽く息を吐いて廊下に出る。部屋を出てしまえば、十五歳の少女は第二王女として、すまし顔で歩いていく。



 近衛兵に先導される王女から少し離れて、女官は音もなく歩いていた。そんな彼女を小声で呼び止める男がいる。王族の住まう城を歩くには少し無骨なスーツ姿だった。


「王女は」


「特に変わりありません」


 女官は無機質に応じる。男は眉根を寄せ、廊下を歩く王女の後ろ姿に目をやった。窓から差し込む朝日を浴びて、彼の赤い髪は燃えるように明るく見える。男は青い瞳にもどかしさを滲ませていた。


「……王女自身に被害が出ていないだけマシだが、奇妙な事件だな」


「同意します。……昨夜の報告ですが」


「ああ、今から失踪者の部屋を調べ直す。……考えただけで骨が折れそうだ」


「そうですか。『病は気から』と言いますのでお気を付けて」


「想像しただけで骨折する人間はいねえよ」


 何の冗談かと顔をしかめて男は女官を見下ろしたが、女官は変わらず無表情のまま男の視線に応じた。


「あなたほどの無鉄砲だと想像しただけで骨が折れそうですよ、テオ」


「要らん信用をありがとうなイレブン」


 渋面で唸り、赤髪の男──テオ・スターリングは王女とは反対方向に歩き出した。それを見送ってから、銀髪の女官──イレブンは足早に王女を追いかける。



 捜査官であるテオとイレブンは、とある事件を調べるために国王たちの住まう城に潜り込んでいた。


 ここイザーク城では、忽然と人が失踪するという事件が相次いでいる。



 国王を始めとした王族が暮らす以上、城のセキュリティは強固で万全だ。人の出入りも細かく把握されており、不審人物がいれば即座に確保される。


 それにもかかわらず、この城で働く六人が立て続けに姿を消したのだ。



 奇妙な失踪事件だった。


 当初は従業員が城を抜け出しただけだと楽観的に見られていたが、それが三人目、四人目と立て続けに姿を消せばただの失踪ではないと誰もが不安になる。


 しかし事件性を示す証拠は見つかっていなかった。何者かによる拉致だとすれば、それは到底人間にできる犯行ではない。


 もしかして、壁に擬態したアマルガムが通行人を飲み込んでしまっているのではないか?


 そんな疑いが出るほどに、失踪者は忽然と消えているのだ。



 六人はなぜ失踪したのか。テオたちはそれを明らかにするために捜査を依頼された。万が一アマルガムが関わっていたとしても、速やかに対処できるように。



 アマルガム。自律型魔導兵器としてアダストラ国の最前線を支える、不死身の巨大歩兵。どんな攻撃を受け手も再生し、国に必ず勝利をもたらす戦略兵器のはずだった。


 戦場で活躍する彼らは、一部が流出し、その能力を犯罪に悪用されているケースがある。


 そんなアマルガムの関わる凶悪犯罪に対抗するために、テオたちは集められた。


 人間と、魔導士と、そして──可憐な少女の姿をした、アマルガムを統率するアマルガム。彼らはチームを組んで、アマルガムの関わる凶悪犯罪を阻止する。それが、捜査局刑事部特捜班である。

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