その果実

 既に多くはない家財道具の発送を終え、手荷物品だけを詰め込んだスーツケースを抱えて羽田空港に。未だに流されるままで、もうすぐ日本にしばらく帰れなくなることに全く実感がない。電車の車窓から見える普通の風景が、いやがおうにも後ろ髪を引っ張る。早めに保安検査場を抜け、保安検査ゾーンにある寿司屋に行き、クレジットカードの特典で利用できるラウンジで時間を潰す。搭乗。エコノミークラスの狭い座席に座る。羽田ーハワイ便。ほとんどの人間が勝ち組の浮かれた家族旅行に見えてきて嫌になる。ハワイにつく。入国、ビジネス、ハブアナイスデイ。そしてハワイで乗り換えに4時間待たされた後、数人しか乗れないような小型飛行機に乗り換えて1時間のフライト。

 空から見えてきたその島は、人一人の人生を吸い込むには随分と小さすぎるように見えた。小さな飛行場に無事着陸する。俺を両手を挙げて歓迎する、笑顔の小太り日本人中年男が一人。

「いやあ、君が鴨井君かい! 僕は君の前任者の飯名リオさ! いやーよく来てくれた! 歓迎するよ! 引継ぎが終わるまでの短い間だけど、よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

 俺も彼については聞いていた。彼は白人とのハーフというだけの理由でこの島に送られたかわいそうな男らしい。白人とのハーフだと言っても、日本生まれ日本育ちだからほとんど日本人だ。ちょっと背が高くて髪の色が明るい以外はどこにでもいそうなサラリーマンに見える。30歳でここにきて、35歳の誕生日が来たということでようやく日本に戻れることになったらしい。

 そりゃ、こんな島に5年もいたら後任の人間なんて歓迎したくもなるだろッ……!そいつがどんな嫌そうな顔をしていたとしてもッ……!

「じゃあさっそく島を案内するけど、まずは荷物を置いたほうがいいよな」

「あ、ええ、そうできると助かります」

「じゃあ早速自宅兼事務所に案内するよ」

「え、自宅と事務所が一緒なんですか?」

「ああ、一階が事務所で二階が自宅さ。この島は土地が足りないからな」

 なるほど。確かに空から見てもそんなに広い島には見えなかった。よそ者が家と事務所と畑とで沢山土地を使うと要らぬ軋轢を生みかねないだろう。それは合理的なように思える。

 飯名さんが乗ってきた車には運転手が乗っていた。壮年でガタイのいい白人男性だ。

「紹介するよ、うちのナンバーツー、副営業所長のミカエルだ」

「よろしくお願いします、ミカエルさん」

「ああ、よろしく頼むよ」

 緊張した私のたどたどしい英語にも笑顔で対応してくれるミカエルさん。私のような日本人の応対には慣れているのだろう。聞けば、数年おきに本社からやってくる連絡役の日本人は非常事態でも起きない限りプラプラしており、実務の取り仕切りは勤続数十年のミカエルさんが取り仕切っているとのこと。まあこっちに来る前に聞いてた通りだ。

 ミカエルさんが運転する車に乗り込み、移動しながら日本語と英語のちゃんぽんで雑談が始まる。ミカエルさんは日本語もだいぶんわかるみたいだ。

「ミカエルさん、日本語上手ですね」

「いやあ、まだまだですよ。聞いて覚えただけだから、漢字とかほとんど書けないし」

「あーなるほど、まあ私も英語が上手なわけじゃないですしね~」

 島の海岸沿いをぐるりと回る。強い日差しが降り注ぐ砂浜に人の姿はまばらだ。

「ここの砂浜は泳げないんですか? 思ったより波が強かったりするんです?」

「いや、単に交通が不便だから観光客が来ないだけさ。君がそうしたいなら、毎日泳いだっていい」

「へえ、こんなに人が少ないなら穴場になるだろうに、やっぱり来ないんですか?」

「来るのが不便ってだけならまだしも、ホテルもショッピングできる場所もないからねえ。ハワイからわざわざ来ないさ。ほら、今左手に白い建物があるだろう」

 見ると確かに、道路を挟んで海の逆側に白い公民館のような建物が見える。

「あれがこの町の唯一のスーパーさ。一月に一回、アメリカから船で食料品や水や雑誌を運んでくるのさ。白人向けだから君の口に合うかはわからないけど、この島の伝統料理よりは気に入るだろう」

「ちなみにこの島の伝統料理ってどんなんですか?」

「獲ってきた魚やタコ、イカをそのまま焼くだけさ。日本人にとってはご褒美だなんて言うなよ? 血抜きもまともにしてないんだ。大丈夫だと言ってかぶり着いた飯名サンは三日三晩寝込んだんだからね」

「いやー、あの時は参ったよ」

「だから止めたのに。ここで生まれ育ってなければあれを食べるのは命がけさ」

 そんなこんな言っているうちに二階建ての(つまり、この島で見た建物の中では一番大きい)コンクリじみた建物に到着した。

「ここが僕たちの営業所さ。じゃ、さっそく入ろうか」

 ギイ、という音(油が差されていないのだろう)をさせながら、飯名さんが扉を開く。いかにも中小企業の事務室という感じの部屋だ。リノリウムの床にいくつかの書類棚。中央にはイスと机が四セット。私とミカエルさんと、あと二人いるのだろう。パソコンも電話もなく、大量の書類に支配されているがゆえに、ここは日本ですらないにもかかわらず奇妙な昭和臭さがある。奥に見える階段が営業所長の(つまり、私の)家に通じているのだろう。

「Oh~。今日は新しい所長が来る日だから待っているようにとアガサとマリッサには伝えておいたのに。これじゃ自己紹介できないネー」

「ははは、この島じゃ何かを急ぐことなんてないさ。この先毎日会うんですから、自己紹介なんていつでもできますよ。鴨井くん、二階は既に話した通り営業所長の家になってるんだ。私の荷物は既に運び出して、君が送ってきた荷物を入れてあるから、スーツケースも置いてくるといい」

「わかりました、ありがとうございます」

 二階に上がると、そこには……トイレ、アルミシンクの小さなキッチン、バスルーム、そして奥は……和室? そう、和室である。床にはそれなりに小綺麗な畳が敷いてあり、その上に私が送ったいくつかの段ボール箱が置いてある。。故郷から遠い地で過ごす人間のための、ちょっとした気遣いなのだろう。うちの会社の人間にそんな感性があったのに驚きである。

「まあ、今時の若者は和室で安心したりしないが……」

 そう、俺が生まれ育った家には既に和室なんてなかった。だから和室にはほとんどなじみがない。とはいえ、気遣われて嫌な気分にはならない。

 とりあえず荷物を置いて、下に降りる。

「荷物おいてきました」

「はーい、じゃあとりあえず島を一周しておこうか」

「わかりました」


「ここがうちの果樹園だよ」

「本当に辺り一面果実だらけですね」

 それは営業所のすぐ近くにある果実園。ビニールシートなしで伸び伸びと天然日光を浴びて育つ果実は、しかし異様に茎が太くて背が低い。一つの茎から3つか4つは真緑の巨大なナスビのような実がぶら下がっている。

 こいつがこの島でしか育たない、だなんて強情を言うから俺がこんなところに来るハメになったのだ。と思うと、大変腹立たしくなってきたが、会社の商品だし、飯名さんとミカエルさんは見てるし、何より果実に八つ当たりするのもあまりに情けないのでこらえた。

「それにしても随分茎が太くないですか」

「そりゃうちの技術者が品種改良したからさ。茎を太く、背を低く、そして沢山の実を。君、品種改良の基本だよ」

 土地は離れがたくても品種改良はいいのかよ!

「ん……ってことは原種はまた別の姿なんですね」

「ああ、原種はもっと島の奥に回ったところでみなさん栽培してますよ。実の形は同じでも、大きさが違いますし、なにせひょろ長いからすぐにそれとわかります」

「あれ、じゃあ交雑なんかは気にしなくていいのか」

「いい質問ですネ、交雑しないようにうっかり交雑してそうな見た目の違うやつは受粉に使わないのも我々の仕事です。一世代混じったぐらいじゃ大したことにはなりませんし、実の成分自体は変わりませんからね」

 まあカモイさんはそんな雑務は私たちに任せてのんびりしてればいいんですヨ、とけらけら笑うミカエルさん。

「じゃあ、その原種を見に行きましょうか」


「あー、確かに全然違いますね」

「デショウ?」

 さらに島の奥にいくと、確かに似たような果実が植えられている畑があった。ただ見た目は全く違う。実の形や色こそ似ているものの、茎はひょろひょろと空に向かって長く伸びているし、細いし、それで一つの茎には一つしか実がついていない。

「こんなにも違うものなんですねえ」

「まあ、この島の住民が自給自足しているだけだから、そんなに実を作る必要もないしね」

「そういえば、そもそもこの実は何に使うんですか?」

 よくよく考えてみればこの島の住民が鎮痛のために身を丸かじりしているわけがない。そもそも鎮痛効果は有効成分を抽出しないとほとんど得られないし。

「もともとは水分補給代わりに食べていたのさ。今でこそ水はアメリカから運ばれてくるけど、そうなる前は貴重な水分源として重宝されていたというわけ。果物から水を補給する文化そのものは珍しいものじゃあない。中東のスイカなんかもそう。甘味が少ない代わりに水分が多く含まれている。今は船で水が運ばれてくるから日常の水分補給としては廃れたけど、祭りの時に沢山食べるんだ」

「祭り」

「そう、祭りだ。貴重な水源に感謝し、沢山果物を食べることに昂揚する。貴重なものがそのまま信仰の対象になるのはよくあることだろう? この島の神様は水の化身なんだ」

「なるほど」

「ああ、そうだ祭りで思い出した。鴨井くん、これは一番大事な引継ぎ事項で、なんならこれ以外は全部忘れてもらっても構わないぐらいなのだが」

「はあ」

 私のほうに態々向き直った飯名さんは、この島に来てから一番真剣な表情をした。太陽が軽やかに照っている南の島に、全くと言っていいほど似つかわしくない顔だ。ここだけ気温が5度、いや10度下がったかのような錯覚に陥る。


「この島での祭りの誘いを、断ったら絶対だめだよ」



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