虚構の島ベルナパタ

冴吹稔

第1話 贋物航路

 高度を下げた旅客機の機窓から、ようやく海が見え始めた。

 

「わぁ! 見てください准教授せんせい! 海ですよ、海!」

 

 窓際の座席に座った樋口史子が、子供のようなはしゃぎ声を上げた。

 海など、ここまでの旅の間にもういやというほど見たはずだったが。彼女の肩越しにちらちらと覗くエメラルドグリーンの海面は、不惑をとうに越えた橘川にもハッとするような鮮烈な印象を与えた。

 

「天候に、恵まれたね」


 穏やかにそういうと、橘川は再び機内に視線を戻した。到着まであと十分程だ。まもなくこの小型旅客機が地面に足をつけるかと思うと、ホッとするような安堵感と、最後の最後に酷いことになるのではないかという、いわれのない恐怖感に捕らわれた。

 橘川は正直、飛行機があまり好きではないのだ。ましてや、目的地が――たかだか人口一万人足らずの、南洋の小島とあっては。

 

 

 橘川雄二は墨東文化大学の文学部に研究室を持つ、中堅の民俗学者だ。

 専門の研究対象は江戸末期の遊行僧に関するもので、国内で文献を漁り、時々めぼしい人物の足跡を実地に辿るといったことが専らだった。海外に出るような用事はほとんどない。

 それが今回、教え子でもある助教の樋口史子と共に、マーシャル諸島の外れなどという辺鄙な場所までやってきた。彼にしてみればいささかならず稀有なことではあった。

 

 樋口はオセアニアの未開文化とその伝播経路について研究している。

 手漕ぎのカヌーやアウトリガー船といった手段を用いて、人々がどのように大洋を横断したか――それは到底彼女一人の手に負える規模のテーマではなかったが、現代の通信技術はネットワークを介して数多の研究者を結び付け、畑違いの研究分野からも知見を集めることが可能になった。

 橘川も閲覧させてもらった彼らの交流サイトでは、少しづつだが確実な足取りで、太平洋における人類史の壮大な流れストリームがその姿を明らかにしつつあるのだ。今回のベルナパタ島へのフィールドワークもその一環――橘川はさしたる疑問もなくそれを信じ、受け入れていたのだったが。


        * * *

        


 小さな島には似つかわしくないほど整備された飛行場を、ダッソーファルコン900型旅客機がゆっくりと廻ってエプロンへと近づいていく。着陸のその一瞬はさすがに機体ががくんと大きく揺れて、橘川も樋口も小さな悲鳴を上げたが、その後は嘘のようにスムーズだった。

 

「暑いですねえ、流石に」


 樋口がどこか嬉しそうに言って空を見上げた。日本はちょうど寒波に襲われて、雪が降っているというニュースが伝えられている。こちらはといえば金属的な硬さすら錯覚させるぎらついた青空に、わずかに白い雲が浮くばかりだ。

 

「ようこそ、ベルナパタ島へ!」


 黒いセルフレームのメガネをかけた痩身の男が、日に焼けた顔に笑みを浮かべて近付いてきた。


「ヒグチさんと、キッカワさんですネ?」


 白い歯を見せて人懐っこそうに首を傾げた男に、二人そろって「そうです」とうなずく。橘川には、男が日系人であるように思われた。

 

「ベルナタパ観光事務所の、ネイサン・タジマでス。日本語、だいたいワカルます」


 タジマはやはり日系人だった。最寄りのホテルまで徒歩で向かう途中、彼は一族の来歴について話してくれた。

 ニューギニアで戦死した父、つまりタジマにとっては曽祖父の遺骨を探しに来た祖父がそのまま現地にとどまって、あれやこれやと事業を始めたのが、だいたい1970年代の半ば。その後紆余曲折を経て、三代目にあたる彼はこの島に職を得ることになったのだという。

 

「オーストラリアも子供のころしばらくいましたが、ダメでしたネ。公式には撤廃されてましたが、まだアジア人への差別根強かった……親父いつも言ってました。中国人とイッショクターにされる、っテ」


 そう言ってヘラヘラと笑うタジマには言うほどの屈託はなさそうだったが、ともかく流れ流れてこの小島にいるのだ。相応の苦労はした、ということなのだろう。

 

 ホテル――と言っても丸太を組んで作ったコテージのような物が並んだ場所ではあるのだが、そこの北側には遠浅の大きな湾が広がっていて、樋口を喜ばせた。

 サンゴの砕けた白い砂が水底に堆積して、透明度の高い海水を透かして輝くようだ。何かの宝石を思わせる、その明るく開放的な景観をたどって視線を動かしていくと――橘川はそこに、いささか場違いに思えるものを見出した。

 

 真っ赤に錆びついて半ば崩れかけたように見える細長い船体の船が、湾の入り口近くで砂州に乗り上げたままになっているようなのだ。

 その船の甲板上には、どうやら大砲らしき長い筒状のものさえ見えた。密閉された砲塔から突き出す、単砲身の艦砲――

 

「あれはもしや、駆逐艦……ですか?」


 ではこの島もかつては戦火に見舞われ、数知れぬ男たちの墓場となったのか。

 呆然とする思いに沈んで目を閉じ、ほとんど意識もせずに頭を垂れた橘川だったが――

 

「ハハハ、キッカワさん、騙されマシたネ!! あれは大戦中のものじゃないんデス。2014年に作った模造品ですヨ。観光用の……錆びテ見えるのはネ、塗装」


 巧いもんデショ、と笑うタジマに、橘川はしばし呆然として返す言葉を失った。

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