口なしドゥワァ、目まで失い、
「邪神の被造物よ、見ていた、見ていたぞ!
自らカミガタリに堕ち、老人共を殺し尽くしたな!」
割れた螺鈿と砕けた星屑転がる森の湖底。太陽の光も届かない世界の底。
ドゥワァの額には脂汗が伝う。ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返す。
「契った相手は貴様らの国母、敗走した勝利の愚神ときた。格上のカミガタリを殺すためとはいえ無理をする」
ドゥワァを凝視するは黄金色の髪の女。一秒毎に女の身長は不規則に伸び縮みする。顔のパーツの位置がずれ肥大化していく。
「力を得る為邪神との契約はなんだ? 大方腹ごと裂かれた我が子を抱かせろだのであろ?
邪神は死なん、母の肉と渾然一体と化した嬰児の肉片を拾い集めるか? 肉片を集めたところで無為無為無為! 肉片は所詮肉片に過ぎぬ。
愚神の取り立ては厳しいぞ。気高き太陽が二、三巡らぬ内に貴様は契約不履行で邪神どもが住まう神の国に引き摺り込まれるであろ! 邪神の世界で只人が生きてゆける訳もなし」
女の青い瞳は今やドゥワァの体よりも大きい。青い瞳がドゥワァに迫る。
「貴様は死ぬ。貴様の想い人も王の寵愛を受け子を孕むが、毒を盛られ腹の子ごと死ぬ。全ては精霊の予言通り、神代の運命をなぞる。
この月の精霊に救いを求め月のしじまに降り立ったのであろうが手遅れよ。疾く立ち去れ。精霊の寝所に腐乱した漿果の悪臭をしたたらせおって、分を弁えよ」
ドゥワァは合掌する。
月の妖魔よ。ぼくの肉体を、心を、未来を差し上げます。どうか力をお貸しください。
ドゥワァの音のない言葉が青白い洞穴に響く。
「死に損ないが、力を得て何とする!」
馬鹿女を殴りに行きます。
ドゥワァの言葉に女が身体の伸縮を止めた。
「たかだか女のために全てを投げ打つのか。その思慕の念は、邪神により捻じ曲げられたものとあの女に言われただろうに」
あの馬鹿女の言うことを鵜呑みにする必要がどうしてありましょう。
胸を焼く思慕の念が偽であったとしても、ぼくは彼女と過ごしたかけがえのない日々を過ごしました。
共に森へ罠を仕掛け、彼女を看病し、うさぎの防寒着をもらい、庭の果実を食べさせ合い、彼女を殺したいと願ったあの夜がありました。
それらは確かにあったのです。
湖底に再び沈黙の帷が降りる。
女は黄金の髪に埋もれてしまうほど縮んでいた。
「力は貸せん。邪神との二重契約だ。
貴様が精霊と邪神のどちらの取り分かで争いが起こる。この国は邪神と精霊の戦さ場となろう。
邪神は勝利のために、この国のあらゆる生命から力を奪い取るだろう。そうなれば終いよ。この地は不毛の大地と化す。
かつて名誉ある地位を占めた精霊として、世が乱れるは望まぬ」
たとえ何百の村が滅ぼうとも、何千の赤児が死に絶えようとも、ぼくの知ったところではありません。
女は豆粒ほどになってしまった青い瞳をしばたかせる。
どれほど身勝手か理解しています。不正であることも重々承知です。
彼女のいない朝に目覚め、彼女のいない夜を過ごしたくないのです。
彼女がいなくとも安穏と営み続けている世界が憎かった。ぼくを世話してくれた親友でさえ、憎かった。
彼女がいない世界など、勝手に失われてしまえ!
ドゥワァの荒い息遣いが星屑と螺鈿の間で乱反射する。
きっとぼくの人としての大切な部分や良心は壊れてしまったのでしょうね。これが女神により歪められた感情なのでしょうか?
……否。
これはぼく自身の邪悪です。己が身の毛もよだつ邪悪だと自覚した上で、愚かと承知で他人を害します。
それが他人を傷つける者の、せめてもの責務です。
女の青い瞳から金剛石がこぼれ落ちた。湖底に落ちた金剛石はたちまち握り拳ほどの大きさに変化し、湖底を埋め尽くしていく。
「昔話をしよう。
火の大精霊と呼ばわれ、誰よりも貴く気高い精霊がいた。見目麗しく、敵の総大将たる娘の心を奪うほど。
火の大精霊は妹たる光の精霊を伴侶とした。肉親同士が結ばるるは禁忌である。罪を犯せば世界は再び暗黒に覆われる。
火の大精霊は罪と暗黒とを恐れた。
戦争が終わり、右眼だけとなった兄様は自ら望んで空へ磔され太陽と成った。己の犯した罪を清算するためだ。
妹たる光の精霊は愚かにも己が愛した太陽と結ばれようと月と成った。
光の精霊は罰として月と太陽は決して追いつけぬよう定められた。
光の精霊は名を奪われ、精霊としての権能は空に、精霊の抜け殻は湖底の虜となった」
女はたちまち金剛石に埋もれてしまう。山のようにそびえ立った金剛石。石の隙間から白魚のような指がにゅうと生える。
「兄様は己の良心と精霊が生来持つ正義に従い、世界を取り成した。
兄様が世界を救済する力を持つからこそ、かつての光の精霊は、月の女は、抜け殻は、私は、世界よりも私を選んで欲しかった!」
病的に細い指の数は十に留まらない。千を優に越える指は関節を無視して折れ曲がる。
「兄様は聡明であり、それ故に蒙昧であれなかった!
己が無謬の存在であれなくなるを恐れ、不正を恐れた。ひとつの恋に溺れられるほど、愚鈍になれなかった!
嗚呼、私は間違っている、正義と節制を是とする精霊の思考ではない、反吐が出るほどの悪辣な考えよ! だかな、正義は私と兄様を分かつばかりで糞の役にも立たなかった!
私は、孤独に蝕まれ、湖底にてひとり狂い、精霊の誇りを失った、恥晒しだ……」
複雑に折れ曲がった指はドゥワァの足首に絡む。腕に巻き付く。腰を縛り上げる。指はドゥワァの顔以外を何重に包み込む。
ドゥワァは抵抗しない。指に覆われていない瞳は緑に燃える。
「脆く儚い邪神の被造物よ。お前の肉体も未来も魂も望まぬ。ただ悪辣に強欲に己が欲を満たせ。
お前が成さんとしている悪事こそ、我が積年の悲願である。長年脳内で書き続けた妄想である。
お前が悪事を成しても私と兄様が再び合間見えることはない。しかし兄様に顔貌がよく似たお前が、私の妄執を現実のものとしてくれるのならば多少の慰みにはなろう。
私の全霊で邪神どもの瞳から貴様を隠そう。
人間よ、まばたきのうちに消える陽炎よ。
我らを越えて、神代の遥か先へ行け」
ドゥワァを包んだ指はゆるゆると湖面へ向かい上昇し始めた。女の指からこぼれた金剛石が輝き湖中を七色に照らす。
針を思わせるような細さの二本指がドゥワァの柔らかな眼に触れた。
「お前の愛した女は歪んだ力を邪神より与えられた。お前の女は見るものによってその相貌を変える。見たものが最も美しいと思える相貌と成るのだ。一目合間見えれば誰もが女の虜となり、平静でいられなくなる。
お前の大望を果たすために手を貸そう」
眼球からの軽い反発。女の指に力が込められる。
ドゥワァの眼球に女の指が突き立てられる。
生卵にナイフを刺すかのような優美な動作。轟くドゥワァの無言の絶叫。
女は絶叫を意に介さない。更に指を突き刺し眼窩を抉る。
「眼を閉じれば邪神の力に惑わされることもない。その瞳を通して世界を見ゆること能わなくなるが……。
お前の大望に比ぶれば些事であろう?」
ドゥワァは激痛により意識を失った。
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