第26話 夜明け前

 時は夜明け前。神々は気高き褥にもどり、裏切りの大淫婦は太陽の兆しを今か今かと待ちわびる。


『塔の人と初めて会話する。会話は禁じられていたが、涙を流す人を放っておくことは良心が咎められた。

 耳障りの良い美しい声の、黒いベールを纏った女の人。わたしはこっそり彼女を黒き神秘の君と呼ぶことにした』


 掲げられるは男の生首。血をだくだくと流し絶命する女。

 神々と妖魔の大戦もかくやと思われる陰惨な村で、大柄司祭は設置された松明を頼りに「かしげちゃん」と呼ばれた修道女の遺品である聖書をめくる。

 聖書の余白には、青いインクで書かれた美しい文字が踊っていた。


『今日も一日中神秘の君に文字の読み方を教える。口下手で不器量なわたしでも、黒き神秘の君は求めてくれる。餓死寸前の物乞いに似た必死さで。

 孤独の苦しみは想像に難くないが、少々煩わしく、疎ましい』


『司祭様に黒き神秘の君との関係が露見してしまった。わたしのせいで、神秘の君が!

 神秘の君と会えなくなってしまう。神秘の君にはわたししかいないのに!』


『黒き神秘の君は司祭様と飲酒をしたそうだ。なんと不埒! 恥を知って欲しい』


『黒き神秘の君と司祭様が懇意になっていく。神秘の君が以前のようにわたしを求めなくなった。煩わしくなくて丁度いい。いい距離感になったのだ』


『黒き神秘の君が司祭様に暴言を吐く。知らない、そんなあなたを知らない』


『司祭様と歓談する黒き神秘の君を見ていると苛々する』


 青い文字が少しずつ歪み、短文が目立ち始める。司祭は構わずページをめくる。


『わたしだけにその笑顔を見せて』


『司祭様が早く仕事で遠くへ行きますように』


『追い縋って』


『ドゥワァという男が嫌い。死んでしまえ』


『依存していたのは、黒き神秘の君ではなく、』


『わたし以外と話さないで』


『前みたいに縋って』


『わたしはこんなにあなたを』


『黒き神秘の君、』


『永遠に塔へ閉じ込められてしまえ』


 羊皮紙どうしが張り付いた箇所があり、司祭は音を立てつ紙をはがしていく。司祭は眉を顰めてしまう。

 紙が張り付いていたページには赤黒い血文字がにぎにぎしく書き込まれていた。


『異界の大淫婦は異性愛により神々を裏切り敗北をもたらした。故に異性愛とは悪徳である。

 何より異性愛は生物の本能に依て立ち現れるものであり、己は獣であると喧伝しているようなものだ。

 神の啓示を見たわたしは同性たる神秘の君を愛した。同性愛は生物の本能に反している。

 わたしは生物としての本能を超え、精神由来の愛を手に入れた。此れこそが真実の愛。なんと清らで美しいのだろう。わたしは正しい。


 わたしは正義の擬人化だ!


 わたしは人間という枠組みを越えただけでなく異界の大淫婦以上、神を超克した存在となったのだ!』


 聖句の上を無軌道に走る乱文は司祭の手を震わせた。


『死が見える。わたしはやがて死ぬ。構わない。わたしが死ぬことによって真実の愛が完成する。

 黒き神秘の君はわたしの死を悲しみ自責の念に駆られる。事実、わたしが死ぬのは黒き神秘の君が原因だ』


『どうか飯を食むたび眠りおつるたび吐息のたび罪悪感に苛まれてください。

 わたしの死が彼女の人生に黒い影を落としますように。

 わたしは彼女の心へ閉じこもり永遠に生き続ける。彼女の心はわたしのもの。

 どうかわたしの死を背負って抱えて、そのままむごたらしく惨めに圧死してください』


『黒き神秘の君の苦しむ顔が目に浮かぶ。あぁ、真実の愛とはなんと甘美なことでしょう。

 わたしは今、とても幸せです』


 司祭は本を閉じ唇の隙間から浅い呼吸を繰り返す。彼の脳裏に過ぎるは聖書の書き手たる「かしげちゃん」の幼少期。司祭のうしろに隠れ、はにかんだ笑顔が愛らしい子供だった。

「かしげちゃん」の一生は賞賛に値する。聖職者としての本懐である、己なりの真実の愛を見つけ幸せだと書き残し果てたのだから。

 一本筋が通った「かしげちゃん」の生き様を以前の司祭であれば寿いでいただろう。

 

  *


 数日前、ものの数秒で辺境の教会から教会本部へ移動するという信じ難い体験をした司祭は半狂乱に陥った。

 厩で激臭に飲み込まれた彼は意識の外側へ落ち、奇妙な存在と出会ってしまった。

 ソレは乱雑につなぎ合わされた人間の生皮を被り、足元やその皮膚の隙間からぼさぼさの金髪を見せつけてくる。目と思しき場所には青の宝石が埋め込まれていた。


『火の大精霊に、愛ひいあの人に会わせて」


 空から黄金が降り注ぐ。金髪だ。金色の髪の毛が降ってくる。無理矢理引き抜かれた髪が皮膚をそのままに、生暖かいそれは司祭の頭上に降り注ぐ。


『力なら貸ひてあける。たからお願い、愛ひいあの人に会わせて!」


 司祭は絶叫と共に自室で目覚めた。他修道士たちに拘束され、黒い外套でその身を覆い隠した老人が語る。


 貴様が畏れ多くも浴した力こそカミガタリの力である。我らこそ神よりその御力を賜り、自在に行使するカミガタリである。


 神の瞳を借りれば数千里離れた蟻でさえ見つけることができる。

 神の耳を借りれば世界の果てでしずくが落ちる音さえ聞くことができる。

 神の手を借りれば大熊を握りつぶすことも容易い。神の脚を借りれば瞬く間に移動することができる。


 貴様は見たであろ? 神の傍系、異界の大淫婦を。白皮を被り金毛を撒き散らす尊き御姿を!


 人間の皮の中で蠢くソレは司祭の網膜に焼き付いて離れない。


 あの一目見ただけで肌が泡立つ忌々しいし存在が神だというのか?


 司祭はカミガタリという存在が何故秘匿されてきたかその真意を理解する。

 アレは人間の手に余る、関わるべきでない存在だ。不快を撒き散らすだけの存在だ。信奉してきた存在がアレと知り、正気を保てる人間の方が少なかろう。


 司祭は言葉にならない音を発して化け物の姿を脳内から消し去ろうとする。あの化け物らを賞賛する聖句など唱える気にはなれなかった。

 脳裏にあの化け物が現れるたび壁に頭を叩きつける。痛みによって化け物の存在を思考の外へ追いやろうとした。

 だが日に日にその痛みに慣れてくる。四六時中白皮の化け物が己を監視している気さえする。

 司祭は壁に頭を打ち付ける。

 お願いだから脳から消えてくれ。消えてくれ!


 いつの間にか牢に移された司祭の元を訪ねるは美貌の男。恭しくも載せられた司教冠の輝きが司祭の目を潰す。


「火事から逃れて以来だね。今起こっている揉め事は君の大失態が原因だ。責任を取ってもらう」


 司祭は地下の一室へ連れていかれる。そこには壁に聖書のページを貼り付ける顔色の悪い老人と、黒衣を纏い聖句を詠う呪術騎士団がいた。


「君はね、逃げ出した神の御子と君が選んだ見張りの女の子が潜伏している村へ行くんだ。僕はついて行けないけれど……。

 ……覚悟はいいね?」


 腐りかけの果実の香りが部屋に充満し、司祭は絶叫する。


  *


 司祭は巌の如く動かない。

「かしげちゃん」は森近くの小屋の布団で死んでいたらしい。

 司祭は聖書を胸に抱き、体をくの字に曲げる。


 自分たちの信奉してきた神々は、生涯を捧げるに足る存在なのか?


 彼女をこの一件に巻き込んでしまったことをひたすら後悔する。だが大司教の要望に沿う見張りは彼女以外いなかった。

 複数人の足音が聞こえてくるが目を向ける気力も湧かない。


「無事神の御子の回収は済んだ。御子は我らの手で王へ献上される。

 ……大司教様より賜りし命令を、貴殿にお伝えする」


 耳慣れぬ若い男の声がした。黒衣越しでも筋肉質な体つきであることが伝わってくる。


「神を狂信する貴殿は、この村に妖魔のしもべたるバダブの民がいると思い違いをし、全村人を惨殺した殺人鬼である。その罪を領主に自白しろ、とのことだ」


 司祭は聖書を取り落としてしまう。別の男が司祭の手を後ろに回し縄で拘束し始める。


「無論、貴殿は破門である。

 しかし神の温情は厚い。貴殿のような妖魔の手先としか思えん輩でも平等に神の国は開かれている。死してなお、研鑽を怠らず、己の罪を悔い、真実の愛を見つけんとすれば……」

「おい、王子。どうせ神の耳クソだかで会話を聞いているんだろう」


 司祭が相変わらず俯いたままだが、声には強い意志が宿っていた。


「王子、どうしてあなたのまわりに味方がいないか知っているか? あなたは味方から切り捨てていくからだ」

「ここに大司教様はいない」

「私はミスを犯した。あなたはミスを犯した人間ならばどれほど痛めつけてもいいと思っている。

 神の御子が一度塔から出た段階で報告しなかったのはそのためだ。

 素直に報告してみろ、見張りの修道女の全ての爪を剥ぎ、歯を全て抜いても済まないような手酷い罰を与えただろう? 事態をもみ消す他選択肢がなかった。

 あなたは完璧な仕事を求める。仕事のやり方が少しでも気に食わなければ罰、罰、罰! 他者への要求値が余りにも高い。

 自然人は離れていく。敵ばかりなのも自然な道理だ。お前は何十年後かには教会の頂点に立つだろう。だが君臨すれども唯独り、お前は人無き廃墟の王となる」


 司祭は言葉を切る。


「昔から言ってただろう。ひとつでも上手くいかなかったからとて、全てを投げ出してしまう癖を直せ。感情ひとつで積み重ねたものを台無しにするな。お前は人より優れた人間なんだ。暴走するな。冷静であれ!」

「黙れ狂人が!」


 筋肉質な男が司祭の頬を張る。


「……もうひとつ、大司教様から預かっていた伝言があった。孤児たち、貴殿の子供たちは一足先に待ってる、と」


 その一言で司祭の顔色が変わる。


 瞳の色が濁り、顔中から脂汗を滴らせた。聞き取ることのできない奇声を発したかと思うと、歯を剥き出し正面にいた筋肉質な男の太ももに噛み付いた。

 男はたまらず悲鳴を上げ司祭を蹴り飛ばす。司祭は大地へ転がるが、這いずり、土を食みながら男たちに食ってかからんとする。

 噛みつかれた男はその痛みに悶絶し、司祭の気迫に呑まれ誰もが身じろぎひとつできなかった。


「くたばれ、国崩しの王子が!」


 人が死に絶えた村に絶叫が響く。


  *


 大司教は枢機卿にあてがわれた部屋でひとり、村の一部始終を神の耳で聞いていた。

 勢いよく降り注ぐ雨が窓硝子を叩く。大司教は丸椅子に腰掛け、流れ落ちるしずくを眺めていた。


 大司教は王都で、王党派貴族たちと面談していた。神の御子を献上する件について、ちょっとした取引である。おおよそ思惑通りに事が運んだことに満足しつつ、大司教はつらつら思う。


 司祭は愚かな男だった。情が厚く、どんな愚者も弱者も見捨てることができない臆病者。


 見張りの修道女など見捨てれば良かったのだ。彼女は孤児である。孤児は最も貴き愛とされる親子の愛を与えられなかった存在だ。致命的な欠陥故親に捨てられ、人よりひとつ劣った存在、それが孤児。大司教はそう考えている。

 王位継承権を剥奪され、教会に押し込められた大司教もまた、孤児である。

 親の愛を得られなかった自分は存在価値がない。せめて何かを成し遂げねば、路傍の石と変わらぬ存在となってしまう。

 大司教は自分の存在価値を証明するため、命を削り権力闘争に身を投じる。

 怠惰な者が教会の救いを乞う姿を見ると虫唾が走る。努力をしろ。お前たちが貧しく飢えているのは努力不足なだけだ。

 仕事を失敗する修道士を見ると生理的嫌悪が走る。お前は失敗を犯さないために手間をかけたか? それすら怠って失敗を犯すなど救えぬ愚かしさ。


 用意された蝋燭が燃え尽き、部屋には完全な暗闇が訪れる。


 自分は必ずや教皇となるだろう。手段を選ばない。だがその先は? いつになればこの闘争は終わるのだ? 闘争の果てに、この渇きは満たされるのか?


『君臨すれども唯独り』


 司祭の言葉が耳について離れない。


「僕は王になれないよ」


 ふたりきりの時、司祭は大司教を王子と呼んだ。大司教は彼をたしなめたが、そのくだらないやりとりで何度救われたことか。


 司祭は誅せねばならぬ。


 罰は必然、たとえ赦しを与えたとて神にまみえて狂人と化した彼と袂を分かつは必然。

 決別に痛める心などとうに捨てた。


『王子、何度言ったら……』

『僕は王子じゃないから何度言われたって分からないよ』

『このクソガキめが!』


 大司教は顔を覆い、か細いうめき声を上げる。

 司祭との間にあった感情は真実の愛ではない。偽りの親子関係から生まれた感情もまた、偽りに過ぎないのだから。


 早く誰か親子の愛を否定してくれ。孤児が絶対手に入らない愛が絶対のものと言わないでくれ。

 真実の愛は他にあると言ってくれ。

 性愛を否定してくれ。女から一方的に向けられる愛欲はおぞましいものに他ならない。


 誰か真実の愛を見つけてくれ。


「女神よ……」


 夜明けは未だ誰の元にも訪れない。

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