第18話 停滞と平穏

 塔の生活が変わり始める。


 朝の鐘で一度目が覚め、二度寝に入る。塔を登る足音を意識の遠いところで聴く。

 頭から被っていた毛布が剥ぎ取られた。黒いベールごしの朝日は私をゆるやかに覚醒へ導いていく。


「おはよう、ございます」


 目を開くと、ほんの少しだけ呆れた表情の見張りがいた。


「おはよう……」


 私が朝の支度をしている間に見張りが朝食を並べてくれる。

 席に着くと見張りは合掌し、私もそれにならう。


「現の薄壁一枚隔てた先、異界、神の国におはしますわたしたちの神々よ、みなをあなたがたの元にお招きください……」


 化け物じみた女神に祈りを捧げる気になれなくて、女神のかわりにドゥを想う。

 どうか、幸せでありますように。日々の糧を得られていますように。


 朝の祈りを終えるともそりもそりとご飯を食べる。今日は大麦のお粥だ。


「ねぇね、神の国ってなぁに? 前に言ってた理想郷、千年王国だっけ。それのこと?」

「神々が住む仮の宿りです。異界、異なる世界、神の国等、さまざまな名称があります。

 どの伝承を当たっても、理想郷である千年王国とは非なる場所、と記述されています」

「もう、ひとつに統一してくれればいいのに」

「聖書は元々異国の言葉で書かれたものを翻訳したものです。さらには現代語訳した聖書、翻訳した聖書を異国の言葉に翻訳し、さらにもう一度翻訳した聖書などもあります。そのせいで少しずつ用語や名称、はては内容までが変わっていて……」


 朝食を終えると私たちは塔の外に出る。


 日頃の行いが功を奏し、私は見張りの同伴かつ顔を人目に晒さなければ外に出て良いと許可が下りたのだ。大柄司祭の独断である。見かけの割に柔軟なところは嫌いではない。

 私たちは聖歌を歌い、ハーブを摘む。きのこやどんぐりを見つけたらそれもひろう。

 摘んだハーブは丹念に洗い、塔の一階で日影干しにする。きのこやどんぐりは見張りに教会へ持っていってもらいみなさんの腹の足しにしてもらう。

 午後は自分達で作ったハーブティを飲みながら聖書と文字の勉強。つまずきながらであるが、なんとか文字を読み上げられるようになった。


「『ニバーサの子孫』、『は』、『大いに』……繁殖?」

「繁栄と読みます」


 メインテキストは見張りに初めて読んでもらった第八章富豪ニルバーサ。


「そうか、『繁栄す』、か!」

「ひととおり、読み終えましたね。お疲れ様、でした」

「ありがとう……! 物覚えの悪い私に根気強く付き合ってくれて……!」


 彼女は照れたように首を傾げた。彼女といると、女子校のノリでスキンシップできるので楽しい。


「……ところでなんだけど、ニバーサって一回目の処刑は女神が落雷で処刑道具を燃やしたからまぬがれたんでしょう? どうして二回目も同じように助けてくれなかったのかしらん?」

「一度目で神の国に招かれなかったのはニバーサが足りなかったから。真実の愛がなんたるか知らず、信仰心も一般信徒の域を出なかった。二度目の処刑で死に際し、ようやく真理を悟ったのだというのが一般的な見解です」


 見張りは女神の教えとなると淀みなく語る。


「……ただ、古い訳の聖書では……。二度目の処刑でニバーサは神の国へ行ったのではなく、苦難ばかりを与え続ける女神にニルバーサは悪態をつき、女神の怒りによって焼死した、と」

「話の根幹が変わっちゃう訳じゃない」


 私はふむと転生前に会った傲慢で失敬な女神を思い出す。なんとなくだが、古い説の方があの化け物らしいといえばらしい。


「ちなみにどうして新しい訳が広まったの? まぁ新しいからなんだろうけど」

「普通に、古い訳は、人気がなかった、らしいです」

「ふつうににんきがなかった」

「嫌、じゃ、ありません? 財産を失い、子を失い、最後は、女神に、殺される、話。あまりに、救いが、ない……」

「それはまぁそう」


 午後の時間は緩やかに過ぎていく。




「皆さん杯はお持ちでしょうか? では満月夜宴に、『かしげちゃん』初参加を祝して……乾杯!」

「あの、せめて、女神様への、祈りの言葉を添えて……ください……乾杯」

「かしげちゃんってなんだ乾杯」


 満月夜。再三の叱責を無視する酔っ払いふたりを前に、見張りの心は折れてしまった。可哀想である。

 どうしても異性がふたりきりで飲んだくれるのは看過できないらしく、監視役として宴に参加することとなった。

 私たちは床に円座して杯を掲げる。


「かしげちゃんってあだ名いいでしょ? いつも首を傾げてるから、かしげちゃん!」

「そんなに、いつも、首を、傾げて、いるでしょうか……」


 そう言って彼女は首を傾げた。私と大柄司祭はギャッギャッと笑う。かしげちゃんは少しムッとしながら水を飲む。彼女は酒を飲まない。


「ふん、くだらん。これには私が名付けた格調高い本名があるが……。いいだろう、私も今後はかしげと呼んでやる」

「嫌、です」


 かしげちゃんの声のトーンがめちゃくちゃ低くてびびる。


「そのあだ名は、彼女とわたしだけの、特別な……大切な、名前、です。他の人には、呼んでほしく、ない、です」


 大柄司祭の顔を見るだけで酒がすすむ。酒を飲み進める私に、大柄司祭司祭が鋭い眼光を向けてきた。


「おい、阿呆。説得しろ」

「は? 嫌ですが」

「……ワインの名地、メルシャン」


 手酌していた私は動きを止める。大柄司祭はたくわえた髭を撫で、思わせぶりに目を閉じた。


「来週、お前の故郷へ視察に行く。その道中にメルシャンという町がある。

 そこで作られるワインは根強い人気があってなぁ。ほとんどが大都市や他国に買い占められ、地方の民が口にできる機会は滅多にない。

 私も一度だけ口にしたことがある。冷水のようなキレ、神々が住う国の深淵を思わせる濃密な味わい、口の中ではじけるあのたまらない香りといったら……。あのワインがこの国一だと語る好事家も多いが、なるほど納得だ。

 ワイン好きを名乗るくせにメルシャンのワインを飲んだことがないのは、嘘つきあんぽんたんの阿呆モグリ。

 貴重なメルシャン・ワインを、知人が入手したらしいのだが……」

「かしげちゃん、司祭さんにもかしげちゃんって呼ばせてあげて」

「……酒に、負けた……?」

「かしげって愛称可愛いしセンスあるし素敵だから色んな人に呼んでもらいましょうよ、ね?」

「名付け親たる私がつけた本名の方が可愛くてセンスがあって素敵だがな」

「おう司祭ちょっとツラ貸せや」

「なんだ阿呆。喧嘩なら受けて立つが?」

「殴る蹴るでは勝てないので聖歌バトルしましょう。信仰心が高そうに聖歌を歌った方の勝ち。審判はかしげちゃん」

「ハッ! 阿呆め。年季の違いを教えてやる!」

「おふたりとも、おやめ、ください! 信仰心を、棍棒にして、殴り、合わないで!」


  *


 その日その日を聖書を紐解きつつ静かに過ごし、月に一度酒をかっ喰らってバカ騒ぎ。こんな日々を送り、生涯を終えるのも悪くはないなと思い始めていた。


 前世の私は交通事故で物事は死に、村での生活は大司教様に拐かされて終わった。

 いつだって変化は突然始まり、日常は理不尽に終わる。

 私はいつもそのことを忘れてしまう。


 収穫最盛期が過ぎ、冬支度が始まる頃だった。

 日常が裏返る。

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