第16話 酔っ払いどもの満月夜

 季節が春から夏に変わろうとしていた。

 エアコンが存在しない異世界で、塔はいやに蒸し蒸ししている。風も吹かず、太陽がジリジリと気温を上げていく。熱風のせいで呼吸さえも億劫だ。


 ぬるま湯の中を遊泳しているかのような、暑い日だった。


「大丈夫?」


 私は手をうちわにして顔を扇ぐ。黒いベールが顔に張り付き不愉快だ。

 見張りはあいまいに何度か頷く。その日の彼女は言葉少なで、時折体が不自然に揺れる。体調が芳しくないのは明らかだった。


「……ねぇ。暑いし、今日は休んでた方がいいんじゃない? 下階は涼しいよ」

「あなたを監視するのは、司祭様からの、密命、です。わたしを信頼、して、くれている……司祭様を、裏切りたくない」


 見張りはふぅふぅと荒い吐息を漏らす。


「大丈夫……。昨日、暑くて、夜、眠れなかった、だけ……」


 私たちはベッドに並んで座っていた。ベッドが一番窓際から遠く、日差しが当たらないから。やおらに見張りがこてりと私に体を預けた。

 甘えん坊さんめ、と微笑ましく思ったのはほんの一瞬。彼女の体が異様に熱かった。慌てて彼女を抱え起こす。


「見張りちゃん? ……ごめん!」


 頬を叩いても反応しない彼女のベールを剥ぎ取る。

 こぼれ落ちた金の癖っ毛が光に反射する。そばかすがチャームポイントのファニーフェイス。想像よりもずっと幼い顔が、真っ赤になっていた。汗をかいていない。

 見張りは熱中症になっている。

 朝食と共に持ってきてもらった水はふたりで飲み干した。涼しい場所へ連れて行こうにもひとりで彼女を背負えない。私は塔の螺旋階段を駆け降りる。逡巡している暇はなかった。

 塔の半分も降りていないのに息が上がる。体がなまっていた。肺が痛い。息が、酸素が足りない。腕を振っても足がついてこない。

 私は教会の畑にたどり着くとその場に座り込んでしまった。足が震え立っていられなかった。酸素が足りず天を仰ぐ。

 何事かと修道女たちが集まってくる。というか、女性ばかりだ。この暑い日に全身を黒いベールで覆った存在は否応なしに視線を集める。


「助けて……」


 汗が目に入り目が開けない。私は叫ぶ。


「塔で女の子が倒れたんです! 助けてください! 私の恩人なんです!」


  *


「すっとこ阿呆、ボケ阿呆、阿呆、阿呆!」


 そして現在、私は大柄司祭に説教されている。


「あれほど外に出るなと言っていただろう阿呆め、ど阿呆、もう本当、すごい阿呆が!」




 私の叫びを聞いた妙齢の修道女が担架と水を塔へ運ぶよう指示を出していた。

 私は畑へぶっ倒れ土を喰みつつ、事の成り行きを見守るばかり。久々の地面の香りと湿り気が心地よい。

 木靴が視界の端に映る。大きい。明らかに女性のものではない。私は目線を上げる。騒ぎを聞きつけたらしい大柄司祭が、怒気を発しながら私を見下ろしていた。


 騒ぎが落ち着いたのは夕刻。私は改めて塔へ連行された。大柄司祭はベールを被らず髭面を晒している。黒の修道服は大柄な彼が着ると威厳が増して恐ろしい。


「……見張りの子は大丈夫ですか?」


 正座かつ両手を上げる。これがこの世界の反省のポーズらしく、足は痺れ宙に掲げた腕は限界を迎えている。助けてくれ。


「阿呆。……無事だ。お前が大騒ぎしてくれたおかげでな。しばらくは安静にせねばならん」


 大柄司祭の嫌味たっぷりな発言に、私は胸を撫で下ろす。胸を撫で下ろしたついでに腕も下ろす。大柄司祭は黙って私の両腕を上げさせた。クソ。


「見張りは部屋の中にいたらしいではないか。部屋に入らぬよう、見張りに言いつけていたはずだが?」


 私は短くうめいてしまう。

 過失が露見すればあの子は塔の見張りを外されてしまうかもしれない。

 困る。それはとても困る。


「それはあれっすよ、ほら、見張りちゃんが部屋の前で倒れて部屋の中で介抱したみたいな感じなんで」

「……鍵がかかっているのにどうやって扉を開いた?」

「……腕力でこう、こじ開けたとか?」

「無理矢理鍵が破壊された痕跡はないが?」

「がんばりました」


 私は努めて神妙な表情を作る。ほらこの曇りなきまなこを見ろ!

 大柄司祭はため息をついた。


「お前は嘘がつけない阿呆だな……」

「嘘なんてついてません!」

「黙れ阿呆。……ひとつ質問だ。どうして逃げなかった?」

「どうしてって……」

「お前も気づいているのだろう? 騙されていると。逃げればよかったんだ、お前は」


 大柄司祭は力無く首を振った。


「……もういい。腕を下ろせ。足も楽にしろ」


 私は喜び勇んで姿勢を崩す。大柄司祭は踵を返し扉に手をかける。


「あの、彼女は! もう、この塔に来てくれないんですか……?」


 大柄司祭は私の質問に答えず去ってしまった。鍵がかけられる音を聞きながら思う。

 見張りの子はクビだろうな。そりゃそうだ、あの大騒ぎで私の存在が知れ渡ってしまった。この塔に幽閉しているのは十中八九私の存在を隠すため。大失態である。

 彼女はそのリスクを背負って私に声をかけてくれた。聖書を語り聞かせ、私の心の安寧を守ろうとしてくれた。

 もっと不正の重大さを理解するべきだった。私のせいで彼女が更迭されたら? 優しい彼女の将来に致命的な傷をつけてしまったら? 間違いなく私が悪い。私のせいだ。私は背負い切れない責任を前に押し潰されそうになる。


 私は備え付けの貧弱なベッドに横たわり、暗い天井を見つめ続ける。


 軽はずみな行動で彼女の配慮を無駄にした。だからってどうすればよかった? 大柄司祭の言葉通り見捨てて逃げればよかったのか? いやだ、これ以上罪悪感を抱えて生きたくない。

 私は別の場所へ移送されるかもしれない。また孤独な生活に逆戻りか? 

 夜が嫌いだ。ひとりの夜は嫌いだ。首根っこを押さえつけていた汚らしい本性が目を覚ます。


 錠が解かれる音が響く。私は思わず体を起こし毛布を抱きしめる。

 現れたのは大柄司祭。黒の修道服ではなく茶色の外套を羽織っている。


「……寝るところだったか?」


 私は首を振る。大柄司祭は床にどっかりと腰かけた。深いため息が髭の隙間から漏れる。

 大柄司祭はポツリ、と女性の名を口にした。


「……あの娘の……。お前が救ってくれた、見張りの名だ。私が名付けた。あの娘は孤児でな。静かで大人しく、従順な子供だった。心配になるほどにな。ニコリともしない娘だった。

 お前の見張りの任務を命じてから……少しずつ、変わり始めた。感情を表に出すようになって……。明るく、楽しそうに笑う、ようになった」


 大柄司祭が深々と頭を下げた。


「娘を……。我が娘を、救ってくれてありがとう。倒れた件だけではない。我が娘の友となってくれてありがとう」


 外套に隠れていた彼の手がするりと現れる。私は生唾を飲み込んだ。


「お酒……!」


 大柄司祭の手に握られるはみんな大好き赤ワイン。私が村で常飲していたものより上等そうである。


「満月の夜は妖魔たちが猛り狂い、神々はその御身を隠される。信徒は労働を禁じられ、家の中で静かに過ごすよう推奨される。我々にとって休息の夜だ」


 大柄司祭が見たこともないような穏やかな笑みを浮かべた。


「お前も飲むか?」



「見張りの子、クビにならないんですか! お咎めもなし?」

「あぁ。どうせ遅かれ早かれ露見していた」

「よかった……」

「この塔から別の場所へお前を移す可能性は十二分にあるが……。

 いかんせん、手頃な場所が見つからん。中々ないものだ。総本山たる大教会から遠く、噂が広がらず、それなりに所有している田畑があり、我らが大司教の息がかかっている教会……。

 何もかも大司教の、あれの敵が多すぎるのが悪い。あの阿呆め」

「上司の悪口フェーズに入るの早すぎません?」

「そも計画に無理がある。人員が割けないからとたった二人で長期間見張れなど……。無理難題を押し付けおって阿呆が。あれと縁を切れるなら切ってしまいたいわ」

「色々溜まってたんすねぇ」

「幸いお前の顔は誰にも見られてない。修道院長は抱き込んである。修道女たちには箝口令を敷いた。大司教に報告しようにもあれは忙しすぎて連絡も取れない。お前が外に出た件も報告しない。もみ消す。これで私の監督責任も問われずに済む」

「考え方がすこいなぁ。……私の顔って見られるとまずいんですか?」

「……さぁさ、構わずにもう一杯」

「司祭さんすこい! 想像以上にすっこい!」

「当然だとも。私はすこくて意地汚い、阿呆司祭なのだから」


 私たちは向かい合って酒を飲む。大柄司祭が持ってきた酒は香り豊かで葡萄よりも甘く、それでいてくどくなく氷のように溶けていく。

 あまり爽快な飲みごたえで、ついつい顔が綻んでしまう。大柄司祭も子供のような笑顔を浮かべていた。

 スライム型飲酒がかったるいのでベールを外そうとしたら流石に止められた。堅物め。


「お前は阿呆も阿呆、考えなしで行き当たりばったりの大阿呆だ。話を聞いて理解した」

「うっせぇですぅ。人攫いに大上段から罵倒されたくないですぅ。

 それに、私だって変わらなきゃってずっとずっと思ってるんですぅ」


 あっという間に一本開け、大柄司祭が部屋に戻り大量の酒を持ってくる。


「私は私だから変われなかった。一回死んだくらいじゃ私の腐り切った性根は変わらなかった。情けないっすわ」

「阿呆め。確かにお前の行動には指針がない。だから易き方に流れる。強い意志を持つ他者から喰い物にされる。

 このままであるならば、お前は己の人生の主人になれず、他人に支配され終わるだろうさ。

 だがそれの何が悪い? この世に、真の人生の主人たれず果てる人間のなんと多きことか」

「このままだと、私は私を愛せないんすわ」

「だから阿呆だと言うのだこの阿呆。

 お前はどうやってもお前という軛から逃れられない。己を知れ。足るを知れ。己を愛する努力をしろ。

 努力もなしに、己を愛せると思うな」


 大柄司祭の顔は真っ赤っか。ベールな私もきっと真っ赤っか。

 呂律がおぼつかない酔っ払いふたりは月光を頼りに語り合う。


「ほどほどにしておけよ。お前のそれは自己研鑽や人格陶冶とは異なる。自己厭悪、自己否定に他ならない。お前の願望の究極形は自己の殺害だ」

「そうやって自己弁護の手助けをしないでくださいよぉ。言い訳が積み重なって、変われなかった今の自分があるんです」

「案ずるな。お前は変われる。変わりたいというお前の願望は、飢えにも似た痛烈なものだ。きっかけさえあればころりと変わるだろう。

 無論その変化がお前の望んだ形であるとは限らない。変化したことにより、一層お前にとって受け入れ難い己になる可能性もある。もし、そうなってしまったのなら……」


 大柄司祭は小気味良い音を立てて酒瓶を開けた。


「またふたりで酒を酌み交わそう。

 ……なに、一杯くらいは付き合ってやるさ」

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