第15話 黒い神秘の君

 塔で暮らして三ヶ月。積もり積もった感情が爆発する。


「読めるかこんな本!」


 私は大司教様から渡された聖書を壁に叩きつける。本は派手な音を立てて床に落ちる。ページが無惨に折れるが知ったことではない。


「ぽんと聖書渡されてもどうしようもないでしょばか! 大司教のばか! 嫌い!」


 鬱々と悩まぬよう聖書を読もうと試みたが、結果は惨憺たるものだった。

 そもそも文字を知らない。文字を学んだところで、アメリカ語という敵性言語を大学込み込みで十年以上勉強してモノにできなかったポンコツ太郎が、読めるはずもない。


「嫌い……。みんな大嫌い……」


 私は言葉は獣じみた嗚咽に変わっていく。他人と関われない孤独な生活で、私の精神は限界を迎えていた。


「……ドゥに会いたい……。ドゥ……!」


 ドゥに抱きしめられたい。彼の体温を感じたい。働き者の匂いを嗅ぎたい。

 聞き苦しい泣き声を上げていると、ふと気づく。見張りが戸をノックしていた。


「聖書の第八章第一節を、開いてください」


 若い女性の声だった。見張りの声を初めて聞いた。女性だったのか。私は驚いたが、その感情はすぐ不機嫌に飲み込まれた。


「……無理」

「なぜですか」

「数字、読めない……。どこがその、八章? に当たるかわからない……」


 私の鼻をすする音だけが塔にこだまする。自分の発言がばか丸出しで、ただただ恥ずかしかった。

 戸の外で金属がぶつかり合う音がする。その音が止んだ時、黒いベールを被った小柄な見張りが部屋に入ってきた。今まで見張りが部屋に入ってきたことはなかった。

 見張りは床に落ちた聖書を拾い、地べたにすわった私のとなりにそっと腰を降ろした。彼女は折れたページを丹念に広げ、私に見えるように聖書を広げた。


「この文字が、数字。これがいち、これがに……」


 見張りは聖書の目次らしいページを開き、数字をひとつずつ指差していく。


「この文字が前、に入ると、十の桁になる。それ以上の桁は、追々、覚えていきましょう。

 さぁ、第八章第一節を開いてみて」


 私は涙を拭い、ベールをたくしあげてからゆっくりとページをめくっていく。見張りは急かすことなく私を見守ってくれていた。


「開けましたね。では、読み上げていくので……目で、追いかけてみてください。

『ラハールの北にイエニェ族に連なるニバーサという男あり。かの男は財産として羊三十余、土地は』、……」


 見張りの優しい声色でまた涙が出てくる。気がつけば彼女の肩に頭を預け泣いていた。


「……ごめんなさい。あなたに当たっちゃった……。せっかく教えてくれてるのに、涙でぼやけて文字が読めないの。ごめんなさい……」


 見張りは聖書を読み上げるのを止め、逡巡したのち私の肩に手を添えてくれた。久方ぶりの他人の体温があたたかくて心地よくて、また涙がこぼれる。


「……その、わたしが、この章を読もうと思ったのは、ですね。

 この章に登場する富豪ニバーサは、我らが主、敗走した勝利の女神を信奉していたために財産、娘息子を全てをいちどきに失うんです。そして最後は処刑されます。ニバーサは尚信仰を捨てず、二度目の処刑で女神の慈悲により神々が住う世界へ誘われました。

 ……苦難の時は、誰しも平等に、訪れます。ですが、女神の慈悲と、愛を信じれば、きっと……」


 聖書の内容は朗々と語るのに、自分の言葉を話すとなるとしどろもどろになる見張りの彼女が愛しく思えた。見ず知らずの他人に心を砕く彼女に敬意を抱かずにはいられなかった。

 私は見張りを見つめる。黒いベールのせいで顔も、年恰好もわからない。私は再び見張りの彼女に寄りかかった。


「ありがとう」


 私はささやくように彼女に言った。見張りはそれ以上何も語らず、お互いの心音と吐息だけを聞き続ける。彼女の肩ごしに午後の匂いを嗅ぐ。レースカーテンの如くたなびく黒レース。泣き疲れた私は重たい瞼を閉じた。


「……えっと……。司祭様が、いらっしゃるので、その、帰らなくては」


 夢現を彷徨っていた私に見張りが声をかける。遠くで夜を告げる鐘が鳴っていた。私はとっさに見張りの服を掴んでしまう。


「あなたの次の見張り番はいつ? また聖書を読んでくれる?」


 彼女は困ったように首を傾げながら、捕まれた服と私を交互に見比べる。


「わたしは、昼間、あなたを見張っています。明日も、あなたのところに、来ます。聖書は、読んで差し上げます。かわりに、条件があります」


 見張りは唾を飲み込んだ。


「ひとつめ。あなたとお話ししたことを、司祭様に……他の見張りに、言わないでください。

 ふたつめ。もう二度と……聖書を、壁に、投げつけないで」

「……すみません……」


 私は無作法を詫びた。



 翌日から見張りが塔の部屋にやってくるようになった。彼女は朝の鐘から夜の鐘が鳴るまでの間見張りを任されていた。夜の見張りはやはりあの大柄司祭がやっているとのこと。


「……わたしは、司祭様に、命じられるまま、あなたを見張っています。どうして、か、わたしも、知りたいくらいで……」

「そうよねぇ」


 見張りの彼女は知っていることであれば、真摯に答えてくれた。


「ねぇ見張りさん。どうして私に声をかけてくれたの? 私と会話して大丈夫なの?」


 見張りは腕を組む。うんうんと首を傾げて最後にこう言った。


「……確かに、あなたのと会話を、司祭様から、禁じられています。ですが、敗走した勝利の女神を知らない民に、啓蒙することは、間違ったことではないと、思いました。

 それに、その。何より……。あなたが、泣いていた、ので……」


 彼女は蚊の鳴くような声で言った。そんな子を抱きしめずにいられるだろうか。


「ありがとう。大好き」


 彼女は何も言わない。

 見張りの子が帰るとさっさと晩御飯を食べて眠るようになった。

 日の出より早く目覚めるようになり、朝の鐘が待ち遠しくなった。鍵を解く音がすると扉の前へ飛んでいくようになった。

 彼女は聖書の内容だけでなく聖歌、食前の祈り、就寝前の祈りも教えてくれる。自然と彼女と昼食を摂るようになる。


「遥か昔、空と地の境すら曖昧だった時代のことです。神々は千年王国を降臨させるべく、忌むべき妖魔たちは戦争をしていました。

 神々の勝利はその正しさ故に運命づけられたものでしたが、ふたつのイレギュラーが神々の勝利を阻ました。

 ひとつめのイレギュラーが、大淫婦の裏切りです」


 私は口に野いちごを乗せたパンを運ぶ。中々歯応えのあるパンだが、癖になる。相変わらずスライム型捕食スタイルではしたないが大目に見て欲しい。ベールを外させて欲しい。

 見張りは牛乳でできたスープを飲む。食べ方が綺麗で見るたび感心する。


「ええと、大淫婦が敵の大将……火の妖魔に恋をして……。自分のお父さん、神々の長トキノミコトの弱点を話しちゃうんだっけ?」


 村に教会はあったが神父が話してくれたのは勤労を奨励する説話や有名な大淫婦の裏切り、村人にウケが良い火の妖魔と月の妖魔の禁断の恋等の切り取られたエピソードばかり。体系的に聖書の内容を学んでおらず、一から学び直していた。


「そう。恥ずべき下劣な行為です。男女の愛など、真実の愛とは対極にあるものです。

 ……ふたつめのイレギュラーが我らが主、敗走した勝利の女神の御子の殺害です。敗走した勝利の女神もまた神々の長トキノミコトの子であり、女神の腹に宿りし子はトキノミコトを凌ぐ力を持つと目されていました。御子さえ生まれれば戦争に勝てる。我らが女神は勝利の女神と呼ばれていました。それをドゥワァという名の妖魔が、腹の子ごと女神を引き裂いたのです。

 女神は破られた腹を抱え敗走を余儀なくされます。我らが女神が『敗走した勝利の女神』と呼ばれる所以ですね」


 私は転生直前に目にしてしまった乳房の女神を思い出す。アレの下腹部は割れていた。薄々勘づいてはいたが、私の転生の手引きをしたのはやはり国神たる敗走した勝利の女神なのだろう。

 あの悍ましいのが国神だと思うと複雑な気持ちになる。


「……ちなみに、千年王国ってどんな感じなの?」

「終わることのない、とこしえの理想郷です。そこでは正しい出来事しか起こりません。死という事象は妖魔たちが生み出した不正のひとつです。死者は蘇ります。大地は豊かに実り、人々は飢えを知りません」

「……じゃあ、信徒にとって死は恐れるものではない?」

「はい、その通りです」

「そうなんだ……」

「……我らが主、敗走の女神は異なる世界に追いやられたままです。わたしたちは神々の意志を継ぎ、自らの手で、千年王国に近しい世界を作らねばなりません。その一歩として我々は農耕に励みます。豊かは実りある田畑こそ、千年王国の一部と言えますから。開墾は善行のひとつです。

 ……逆に、不労は悪徳のひとつ、で……」

「……私、絶賛悪徳ツムツムしてるじゃない」

「はい……。特に、司祭様は、怠け者に、お厳しい方です。あなたは……布越しでは、わかりませんが、身体に、疾患があるようには、見受けられません。

 どうして、あなたを、こんな塔に……。特に、今、畑は、一番、手間がかかる時期で、人手が足りないのに、わざわざ、見張りを……。人員を割いてまで……。理解できかねます……」


 私と見張りはほぼ同時に首を傾げる。その絵面の間抜けさに私は思わず吹き出してしまう。


「どうして、笑うのですか」


 見張りは撫然としてたずねるが、その様子がおかしくてまた笑う。


「……もう、ひどい方」


 言葉とは裏腹に彼女も穏やかに笑い出す。

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