口なしドゥワァ、湖月のしじまに降り立ちて、
「穢れた肌、嫉妬深い緑の目!」「お前の存在そのものが罪の証!」「赦しを乞え、何か言ってみろ、聾唖が!」「本当は土くれから産まれてきたんだろ、化け物め!」
「ドゥワァ! 腹破りの妖魔と同じ名を冠した、破滅をもたらす呪いの子!」
子守唄は父の罵声だった。
幼いドゥワァは家の外で時間を潰す。家には父がいた。同い年の子供は遊んでくれない。犬豚家畜を友とする。
村の子らが騒ぎ立てていた。
「魔女の小屋行こう! 色褪せた醜いチビに唾吐いてやれ!」
村の子らの楽しげな背を見送る。ドゥワァも彼らのあとを追った。
なだらかな丘を登る。モミの木を越える。森の入り口付近にあばら屋があった。三角屋根のみすぼらしい木造小屋だった。
子は小屋に小石を投げた。木造の壁が一部破壊される。村の子らがおどけた悲鳴を上げた。
「糞餓鬼供! 何をやっているんだ!」
小屋の扉から老婆が出てくる。灰色の髪を振り乱し村の子らに手を伸ばす。子らは悲鳴を上げて逃げ惑う。
ドゥワァはひとり小屋の裏手へ逃げる。
小屋の裏は庭になっていた。おんぼろの柵の内側は雑草が生える。
木のかたわらにある奇妙な存在に目を引かれる。黒い霧が立ち込めていた。黒い霧は人の形にも見える。
「誰かいるの?」
霧から少女の声がした。霧がドゥワァの方へ動く。
「こんなに顔を泥まみれにして……。顔出して」
霧がドゥワァの顔を拭う。霧の中に人間がいたらしい。ドゥワァが産まれて初めて受けた親切だった。人肌のあたたかさに息を飲む。驚きで身動きひとつ取れない。
「こんな天気なのに長袖着て、暑くないの?
……早くお帰り。ここには怖いおばあちゃんがいるんだから」
美しく澄んだ声だった。ドゥワァは聞き入ってしまう。
「汚れが落ちない? 汚れじゃないの? 黒い肌は生まれつきの……!」
霧が手を止めた。
小屋の勝手口が開く。老婆だった。老婆とドゥワァの視線がぶつかり合う。老婆が粘着質に微笑んだ。
「村の忌み子が揃ったか! 褪せ肌、教えてやる。お前の前にいる黒い餓鬼はお前と同じ不義の子だよ!」
老婆は霧に語り聞かせる。
夫婦の契りを交わす前に産まれた子がドゥワァであること。
両親と肌の違うのみならず「おもしれー女!」と産声を上げたこと。己の純潔を証明するためドゥワァの母は自害したこと。ドゥワァを憎んだ父が彼の首を絞めたこと。
それが原因でドゥワァは話せなくなったこと。父に当てつけで女神を殺した化け物の名前をつけられたこと。
ドゥワァは断片的にしか聞かされていなかった半生と名前の意味を知る。父の態度の理由を知る。
老婆の話が終わった。一番動揺していたのが霧だった。霧は歪に広がりがたがた揺れる。
「ごめんなさい。私のせいです。償います。許してください……」
霧は意味不明な謝罪を繰り返した。
幼いドゥワァは魔女の小屋へ通うようになる。
霧は美しい声でドゥワァをもてなした。食事をしていないと知ると食べ物を差し出した。ドゥワァの体を清めてくれる。汚れたドゥワァの服を丹念に洗う。甲斐甲斐しく世話を焼く理由がドゥワァにはわからない。ドゥワァは霧を観察する。
霧はいつも老婆に小突き回されている。霧も人間と同じ食事を摂る。何かをするたびに老婆がケチをつけてくる。
霧もお昼寝をする。
霧も暑いだ寒いだ言う。霧も体調を崩す。とりわけ霧は病弱だった。目を凝らすと霧の奥に人間の体が見える。霧のそばにいると時折赤児の声がする。
霧はドゥワァを疎んでいる。
ドゥワァは霧の細かな揺れや声色の変化でそれを敏感に感じ取っていた。
それがなんだというのだろう。
ドゥワァは皆の嫌われ者だ。
嫌われ者に霧は優しい言葉を与えてくれた。ドゥという愛称をつけてくれた。ためらいがちにドゥワァを抱きしめてくれた。人肌の温もりを教えてくれた。霧はドゥワァにさまざまなものを与えてくれる。
好きでいてくれずとも構わない。嫌われ者の自分と共にいることを許してくれれば。
ドゥワァは霧のあたたかさに溺れていく。
老婆はドゥワァを煙たがり露骨に嫌悪した。老婆が気まぐれにドゥワァへ語る。
「お前、褪せ肌の呪いが見えるだろ。お前の眼は褪せ肌でなく呪いばかり追いかけている。黒い煙が褪せ肌を覆って見えるってんなら本物だよ。
……あのばばあが生きてたら、あんたをカミガタリにしようとしたろうね」
老婆の話は難しくてわからない。
季節がめぐる。ドゥワァは相変わらずチビのままだった。
ドゥワァは老婆に呼び出される。老婆はここ最近一気に老け込んだ。
「いいかい? 褪せ肌は今年の冬にも死ぬ。自分の命を投げうってでも助けたいと願うなら、月のない夜に森の湖へ行け。そうしたら、湖に映った月にえいやと飛び込むんだ。そこさいる妖魔に、うんとうんとお願いするんだよ。
褪せ肌をお助けくださいって」
老婆の話は難しくてわからない。
老婆はじれたようにドゥワァの顎を掴む。
「お前が何を考えてるかこっちは知りようがないんだ! ましてお前には言葉がない。頷け! 頷くんだ!」
自分の考えを相手が知らないことに驚く。老婆の爪が痛いのでドゥワァは頷いた。
「いいかい? 言葉がないからってんで諦めるな。思いを伝えろ。そうしたらお前の世界は一変する。お前には生活を、世界を変える力があるんだ。世界は変えられる! 変われる、変われるんだ」
老婆は手を離す。膝に手をついて苦しげな呼吸を繰り返した。
「私はもうすぐ死ぬ。あの子を頼んだよ」
ドゥワァは頷く他なかった。
数日後。霧が老婆を地面に埋めていた。穴が浅いので黒く変色した手足は剥き出しだ。霧がドゥワァに気付く。
「死んだの。そいで、埋めた」
会話が終わる。
『思いを伝えろ。そうしたらお前の世界は一変する』
老婆の言葉が騒ぐのでドゥワァは首を傾いだ。
「死の概念がわからない? それとも、死んだ人を埋める風習が理解できない?」
ドゥワァは驚く。霧が反応した。終わった会話が続いた。
『お前の世界は一変する』
老婆の言葉が耳鳴りのように響く。
ドゥワァは埋められた老婆の観察をする。膨れた老婆の手足を中心に虫が集る。日に日に赤黒い肉体よりも白い骨が露出する。腐臭がひどい。
『世界は変えられる!』
霧に頼みうさぎの解体をやった。服を脱がすように剥がれる皮。解体が終わると霧に感謝された。ドゥワァの胸は不思議と熱くなる。
うさぎの解体は面白かった。うさぎ肉は美味かった。霧に労われたい。ドゥワァはうさぎを捕らえたい一心で罠を張る。
ドゥワァの罠に鳥がかかる。霧から美しい声で褒められる様を想像する。
ドゥワァは心のまま笑った。霧は鳥を捕まえたことよりもドゥワァの笑顔を喜んだ。ドゥワァの心臓が変な動きをする。腹のあたりがあたたかい。
ドゥワァは父の前で笑ってみる。父はドゥワァを無視した。意思疎通の無意味さを教えたのは父だったと思い出す。
ある秋の日。霧が小屋全体を覆っていた。ドゥワァは身を屈めながら物置に入る。霧が寝込んでいた。弱々しく霧は何かを言うや否や何も話さなくなる。霧の中にいる人間に触れる。ゆすっても引っぱっても起きることはない。ドゥワァは笑ってみる。霧は何も言わない。
老婆の姿を思い出す。水が入った袋のように膨らんだ手。白い骨が剥き出しになった足。たかる虫。
ドゥワァは家中を漁る。薬草瓶をひっくり返す。水を沸かしラベンダーを突っ込む。
粥を作る。霧用に作られた薬膳粥は食べたことがない。匂いしか覚えていない。
ほうきを探して部屋を行った来た。
霧は目覚めた。ドゥワァは生きた心地がしなかった。
『褪せ肌は今年の冬にも死ぬ』
老婆はそう言った。
霧は元気だとドゥワァは己に言い聞かせた。おとといだって冬支度しながら外遊びをした。
霧は耳慣れない不可思議な調子の歌を歌う。歌に合わせて踊ると霧が喜ぶ。霧が喜ぶとドゥワァも楽しい。
うさぎの防寒具も作ってくれた。ドゥワァの宝物だ。
吹雪の夜だった。霧が激しく咳き込んでいた。霧は大丈夫と言った。床に小さな血痕が残されている。
その日の夜。ドゥワァはとなりに眠っている霧を見つめる。
『自分の命を投げうってでも助けたいと願うなら、月のない夜に森の湖へ行け』
ドゥワァは霧を埋める自分の姿を想像する。霧がいない毎日を想像しようとする。
ドゥワァはうさぎのマフラーを巻く。手袋を身につける。明かりになりそうな枝を抱える。最後に霧を見つめる。霧の奥にいる人間に触れる。まだあたたかい。
小屋の扉を開くと吹雪がドゥワァを襲う。ドゥワァは歩き出す。湖までの道先は覚えている。服の上から刺すような冷気が痛い。風で目を開けていられない。灯りもつけられない。薄目を開ける。
死んだはずの老婆が森へ入っていった。
ドゥワァは曲がった背中を追う。老婆は雪上を歩む。ドゥワァは雪をかき分け駆ける。老婆の足跡は残らない。ドゥワァの歩んだ道はまたたく間に雪が積もる。
ドゥワァは我に返る。森の湖にたどり着いていた。雪は幾分か穏やかになっている。
『そうしたら、湖に映った月にえいやと飛び込むんだ』
ドゥワァは厚い氷の張った湖を歩く。巨大な月が映っていた。空を見上げても月は出ていない。月に目を凝らす。氷面に映った月に触れる。
不穏な音が響く。気づいた時には足元の氷が砕け湖中に落ちていた。
ドゥワァの視界が暗い藍色に染まる。水中であるのに呼吸ができた。水をいくら飲み込んでも苦しくない。吐いた息は泡となって上へ登っていく。
ドゥワァは時間をかけて沈んでゆく。周囲には輝く石が点在していた。輝く石を手に取る。大粒の真珠だった。ドゥワァが手を離すとあぶくとなって消えた。
湖底にたどり着く。見上げると湖面ははるか遠くにあった。底には砕けた螺鈿と星屑が転がっていた。
湖底の最奥に女がいた。黄金色の髪を床に敷き詰め青い瞳から透明な鉱石をこぼす。
「あにさま、あにさま。お会いしとうございました。天を遍く照らすお役目を終えられたのですね……!」
女は髪を引きずりドゥワァに近づく。髪からぞろりとのぞく肌は雪よりも白い。女の青の瞳とドゥワァの緑の瞳がかち合う。
女は歩みを止めた。
「藻の如く濁りし瞳はなんだ?
……くさい、くさいではないか。貴様から邪神どもの食む腐乱した漿果の悪臭がする。貴様、邪神の被造物だな?
被造物風情が最上位たる火の大精霊の姿を模して現るるとは良い度胸だ」
女の手の内が月光のように輝く。ドゥワァは己の死を予見する。
『そこさいる妖魔に、うんとうんとお願いするんだよ』
ドゥワァはとっさに両手を合わせる。霧から教わった祈りの姿勢。
お願い。
ドゥワァは唾を飛ばし言葉を発する。言葉は音にならず湖底の暗がりに消えてゆく。己の死は恐ろしくなかった。
助けて。
苦しげに呻く霧の姿が頭から離れない。横たわる霧を思い出す。
助けてよ!
「やかましい、黙れ! 貴様の声は耳に障る!」
女から細く長い腕がドゥワァの顔へ伸びる。針のよう細い指がドゥワァの頬を握る。左目を覆う。女はドゥワァの瞳に顔を寄せる。女の指に力がこもる。
「はっ、女のために湖月のしじまに降り立つか! しかも淫愛の邪神似の女ときた。なんといやらしい。だが運命から逃れられんぞ、貴様らの運命は神代をなぞる。
良い、良い。胎破りの英雄の名を持つ子よ、貴様の願いを叶えよう。
代わりに貴様の宝をもらうぞ! 全てを手に入れようなど強欲である」
ドゥワァはうまく呼吸ができない。目端に涙が浮かぶ。
「これは予言だ。精霊の予言を耳にすることで運命は確かなものとなる。
お前は愛する者と結ばれず、愛した人間共々十五の歳に死ぬ。この運命は変えられない。決して、決してだ!」
金髪のせいで女の表情が分からない。女の青い瞳だけは爛々と輝きに満ちていた。
まばたきを繰り返す。目を擦る。周囲を見回す。ドゥワァは氷の張った湖上に立っていた。朝日が雪に反射し目が痛い。
肩に積もった雪を払う。身につけていたうさぎの防寒具がなくなっていた。ドゥワァは動揺する。うさぎの防寒具はドゥワァの宝物だ。湖畔を隈なく探しても見つからない。
ドゥワァは途方に暮れる。ふと何か握っていたと気づく。黒曜石の紐だった。石と石の間に精霊の導きが編み込まれている。ドゥワァは何もかもを理解する。
ドゥワァは湖をあとにする。
それなりに苦労して魔女の小屋に帰る。扉を開くと長椅子の上で霧が丸くなっていた。ドゥワァは霧が泣いているように見えた。霧の中にいる人間に触れる。
「助けてもらってばかりだね」
ドゥワァは手にある紐を霧に見せた。
「雪月の、臍の緒……?」
名付けの儀式が終わる。導きのまま霧は黒曜石の紐に手を伸ばす。
果たして黒曜石は砕けた。石の破片から黄金色をした風が生まれる。破片は風に乗りもやを包む。黄金色の風はもやを中心とした竜巻に変わる。風が渦巻くたびどす黒い霧が黒曜石に吸われてゆく。やがて黄金の風は暖炉から外へと抜けていった。
ドゥワァは開いた口が塞がらない。
霧が佇んでいた場所には少女がいた。豊かな黒髪は艶やかに光る。病的に白い肌とは異なる健康的な色肌。すっと通った鼻梁に目を惹かれる。
少女が目を開く。夜空色をした瞳だった。
ドゥワァは息を飲む。
「ドゥ」
少女の赤い唇からこぼれ落ちる澄んだ声。幾度となく聞いた声と愛称。霧と同じ声を持つ少女を前にドゥワァは混乱する。
少女は冷たいドゥワァの頬を両手で包む。毒キノコを食べるに似た痺れがドゥワァの全身を貫く。
「命を張るようなことはやめて。お願い」
少女の話のほとんどを理解できない。霧と同じ声で話す少女から目を離せない。
霧の中にいたのはこの美しい人だった? 呪いが解けて本当の姿に戻った?
少女はドゥワァの両手を取る。その場で少女は回り出す。ドゥワァもつられて回る。
「ドゥのおかげでどこも苦しくないの。ありがとう。あなたは勇敢だわ!」
彼女が笑う度部屋に光が満ちていく。綺羅星を閉じ込めた瞳に目がくらむ。
「ありがとう。ドゥ、好きよ。大好き」
熱した鍋で殴られたような衝撃があった。
ドゥワァの頬が熱くなる。心臓が早鐘のように鳴る。胸が苦しい。
少女の言葉ひとつで世界が変わる。あらゆる音が瑞々しさを持って産まれ変わる。あらゆる事物の色が鮮やかになる。
口なしドゥワァ、少女に恋をする。
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