第10話 皺くちゃで幼い愛らしい人へ、等身大の恨みを込めて

 長い、長い夢から覚めた私は泣いていた。居間の長椅子で眠っていたんだった。濡れた黒髪が肌に張り付き気分が悪い。


 意識と感情がマリアと絡まり合い、自我の境界が曖昧だ。現実感がなく、涙で部屋の輪郭がぼやけていく。

 マリアの感覚に引っ張られ、自分が三十も四十も老けたように感ぜられる。落ち着け。私は私だ。私はマリアじゃない。


 マリアの正体が誰であるか気づいていた。他者の人生を追体験したせいで情報が渋滞し、頭がはち切れてしまいそう。私が私と乖離する。


 誰かが私の肩に触れる。誰かの柔らかな体温が私の精神の昂りを鎮めていく。

 誰かの手を取り、今度は手のひらで相手の体温を感じる。気がつけば涙は止まっていた。


「助けてもらってばかりだね」


 ドゥが長椅子のとなりにたたずみ、私に触れていた。彼の頭には雪が積もり、鼻頭が真っ赤っかだ。ドゥは握り拳を私に差し出し、手を開く。

 ドゥの手のひらに収まるほど小さなそれは、黒曜石でできた紐だった。細い紐は揺れるたび典雅な音を響かせた。

 ふと、言葉が口を突いて出る。


「雪月の、臍の緒……?」


 自分の言葉であるはずなのに、言っている意味がわからない。正気の世界の理を越えた何かであることだけは理解できる。

 紐に触れた途端黒曜石がばらばらに砕け、砂になって霧散してゆく。

 私は白昼夢を見る。


  *


 色が失われた世界の浜辺を歩いていると、砂上に赤児が捨て置かれていた。白々とした肌を持つ赤児は泣いている。口を大きく開け、ほうれい線を大粒の涙が伝う。

 私を追い抜かし赤児に近づく者がいた。

 老婆だ。異世界で唯一私に手を差し伸べてくれた老婆が、赤児に駆け寄る。

 赤児に触れようと伸ばされた老婆の手はみずみずしさを取り戻し、赤児を抱きしめた老婆は若く美しかったマリアの姿となっていた。

 マリアは愛おしそうに赤児に頬擦りすると、ようやく赤児は泣き止み寝息を立て始めた。

 波音が煩わしい。目を向けると、大きな波がマリアたちに迫っていた。私は咄嗟に声をかけようとしたが、言葉が音にならない。

 マリアは逃げることなく大波を見つめ、そのまま波に呑まれた。波が引いたあとには何も残されておらず、濡れた砂浜だけがあった。


  *


 まばたきをくりかえし、白昼夢の残り香を飛ばす。目を擦り、一息吸ってはたと気がつく。


 息が苦しくない。


 長椅子から降りてその場を試しに跳ねてみる。体が軽い。心臓が高鳴っても胸が痛くならない。腹の底から力がみなぎり、芯から体が温かくなっていく。


「ドゥ」


 私は彼の手を取る。緑目がこぼれ落ちんばかりに見開かれ、呼吸さえも忘れてしまったようだった。


「マリアから聞いた湖へ行ってくれたの?

 恐ろしい月の妖魔がいるところへ行って、私の呪いを祓ってくれたの?」


 ドゥは答えない。返事がなくとも察しはつく。ドゥの頭に積もった雪をはらい、冷たい彼の頬を両手で包む。


「もうこんなことしないで。お願い。私は……!」


 あなたの家庭を崩壊させた張本人だ、と言いかけて言葉を飲み込む。頭の雑念を追いやり、適切な言葉を必死に考える。


「命を張るようなことはやめて。お願い。

 あなたに良くしてもらう資格なんて、私にない……!」


 何もかもぶちまけてしまいたい。私は極悪人だと告白して、罪を裁かれたい。楽になりたい。

 秘密を抱えたが故の孤独が、耐え難い責め苦となって私に襲いかかる。でも私は大人だからと念仏のように唱え最後の一線で踏み留まる。


 ドゥの表情を和らげたくて、私は彼の両手を取りその場でふたりくるくる回る。居間の景色が右から左へ流れていく。


「ドゥのおかげでどこも苦しくないの。ありがとう。あなたは勇敢だわ!」


 どれほど回ろうと息が上がらない。目が回らない。体のみならず心までもが軽やかだ。遠心力でふき飛ばされないように、彼の手を絡めとる。困惑した表情を浮かべるドゥがおかしくて、ついつい笑ってしまう。


「ありがとう。ドゥ、好きよ。大好き。

 きっと必ず、この恩を返してみせるから」


 ドゥの頬がぽぅと赤く染まった。

 私たちは世界がくらんで倒れるまで手を取り回る。


  *


(恐らく)呪いが解けた私のフィジカルは目を見張るほど丈夫になり、この世界に転生してから初めて風邪を引かずに冬を過ごせた。

 有り余った体力を発散するために雪の降らない日はドゥと外に出て雪かき兼雪遊びをした。雪にダイブしてひとがたをつけたり、雪合戦はもちろん雪だるまを作り合って品評会を開いた。

 ドゥは雪遊びに熱中した。私の目を盗んで深夜に庭で遊ぶくらい雪遊びに熱中した。ドゥが風邪を引いた。もしかしたら悪い遊びを教えてしまったのかもしれない。


 ある朝、窓を開けるとあたたかい柔らかな風が吹き込んできた。長い冬が明けたのだ。

 ドゥは目を覚ましており、近くの大木によじ登ってひと足先に春の喜びを噛み締めていた。私も春の陽気に浮かれて当て所なく庭を彷徨う。老婆の墓場は早くも雑草が茂り、彼女の遺骸を覆い尽くさんとする。

 その中でも一際目立つ若芽があった。私が植えた種が冬を耐え忍び芽吹いたのだ。


「マリア、また会えたね」


 私は静かに若葉を撫でた。


  *


 夢を見る。

 モノクロの砂浜に私は立ち尽くしていた。海面上には安楽椅子に座った老婆がいる。彼女は見たこともないような安らかな表情で波に揺られている。私は肩を怒らせ海面を歩く。


「マリア、あなたはひどい人!」


 砂浜から老婆の揺れる安楽椅子まではかなりの距離があったので、私の息は絶え絶えだ。


「引き取った私を虐待するばかりか、心の底から悪徳を楽しんで! 性格が悪いのは仕方ないけど、それを隠そうとする理性もない。あなたは歳だけ重ねて中身が空っぽの、しわくちゃで醜い子供!」


 今まで抑え込んでいた憤りが、村人たち全員から拒絶された悲しみが咆哮となってほとばしる。理性がないのはどちらかしらん?

 老婆は泰然と椅子にもたれ揺れている。


「忘れない、忘れてやるもんか。あなたみたいに幼稚で身勝手で、性悪な女がいたって!

 世渡りがぶきっちょで、それでも最後の最後まで変わりたいと願い続けて行動した。

 赤の他人である私のために命をかけて、ばかな人。最初から最後まで悪い人でいてくれればよかった。ひたすらあなたを憎めた。あなたを愛さないで済んだのに!」


 安楽椅子ごとマリアを抱きしめる。老婆は相変わらずの穏やかな無表情だ。


「マリア、ばかな人。大嫌い。

 …….ありがとう」




 以来、マリアの夢を見ていない。

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