ロウ11
ロウがすべての作業を終える頃には薄っすらと空が明るくなり始めていた。こんな死の森にも太陽の恩恵は平等に降り注ぐのだ。
出来たばかりの盛り上がった土を見下ろし、懐から短剣を取り出す。唯一ロウの元に戻った母親の形見の短剣だった。
この短剣で領主を刺し殺そうと思っていたが、今は穢れた血で汚さずに済んで良かったと思っている。その短剣を刀身が見えなくなるまで土の上に刺す。
ポケットを漁った手が紙の包みを取り出した。これはロウの師匠である庭師のアルトがロウに持たせたものだった。ロウがララエの死体を運び出すのを見咎めたのはアルトだけだった。
領主親子の死体は荒野に放置されることに決まった。国に引き渡す選択はない。埋葬はせず、獣が死体を食い荒らすにまかす。それが領民達の希望だ。
ロウは皆が喜び浮かれている隙に一人抜け出していた。
放置した死体を見張る者などいない。ララエの体を発見した時死体を漁る死鳥が群がっていた。剣を抜き死鳥を追い払った。ロウの周りを死鳥が囲う。獲物を横取りされた事に不満を持っているのだ。
ララエの体は死鳥に所々突かれていたがまだ損なわれていなかった。
領主の死体は切り刻まれて撒かれていた。その体に鳥達がいくつも群れをなしている。この調子だと直ぐにもっと大きな獣を呼び寄せてしまうだろう。
鳥達の鳴き声が不気味に響く中を大急ぎでララエを黒い布で包み、乗って来た荷馬車に乗せてここから離れた。
安心出来る場所まで荷馬車を走らせるとアルトがロウを見つけてしまった。幸いアルトは一人だった。誤魔化しきれるかもしれないと思った。
ロウが口を開くよりも先にアルトの視線が荷台を捉えた。咄嗟に身構えてしまった。その反応をアルトは見逃してはくれなかった。
「………嬢ちゃんか」
血の匂いは誤魔化せない。ララエをよく知っているアルトは迷いのない確信を持った言い方だった。
アルトが相手では何を言っても言い訳になる。これは立派な裏切り行為だと自覚していた。ロウはここを去る覚悟は出来ていた。息を吐き出して頷いた。
「………ああ」
「そうか」
ロウを咎める声ではなかった。避難の響きもない。ロウが顔を上げるとアルトは荷台に近づいていた。止める暇もなくララエを包んでいる布をめくった。
ララエの顔には無数の傷がある。血と泥に汚れていたが、目を瞑っている様はどこか眠っているだけのように見える、穏やかな顔だった。
皺だらけで年老いた武骨な手が恐れる事無くララエの頬を撫でた。
「わしは嬢ちゃんが好きじゃった。こんな事を言うとばぁさんや、息子や孫達に恨まれてしまうがな」
老人はそう言うと皺の刻まれた顔で寂しく笑った。
「嬢ちゃんが皆に恨まれるんは仕方ない………じゃが、わしはわしの花を誰よりも好いてくれた嬢ちゃんを恨めん。嬢ちゃんは花のために天上の音楽みたいな演奏を聴かせてくれた」
ロウも覚えている。ララエは楽器の演奏をいつも庭でしたがった。花達を聴衆にして奏でる音楽はいつも優しく美しかった。ララエの演奏を使用人達がこっそりと聞き入っているのも知っていた。
「優しい子じゃった。無垢で純粋で穢れを知らん子供だったんじゃ」
涙に目を潤ませてアルトがロウに訴える。
ロウの心臓が、何も感じない筈の心臓が引き絞られる気がした。
「嬢ちゃんは生まれる場所を間違えたんじゃ」
アルトはララエの乱れた髪を優しく梳いて言い聞かせるように囁いた。
「今度は花に生まれてくればええ。うんと綺麗に咲いて愛でられて、沢山の種になってまた咲いて………沢山の人に愛でられる花になったらええ」
こんなに慈悲深い声をロウは聞いた事がない。きっとララエもなかっただろう。
アルトはどうしてロウがこんな事をしでかしたのか最後まで聞かなかった。代わりに別れ際にロウに花の種を渡した。ララエが一番好きだった花の種だと言って優しく微笑んでいた。
アルトから受け取った包みを開けるととても小さな黒い種がいくつも入っていた。何の花の種かロウは知っている。ミズホの種だ。庭には植えられない野に咲く花がララエは一番好きだった。黄金色の花弁の小さな花。一つ一つは素朴で地味な花だが群生して咲くと黄金の海のようになる。
ロウの視界がぼやけた。
『ロウのかみみたいね』
花に触れるようにロウに触れた。この世で一番美しいもののように。賛美と憧憬だけが込められていた。
ララエの、憎い領主と同じ灰青色の瞳は誰よりも澄んでいて美しかった。
ロウはララエが憎かった。ただ守られて純粋で無垢なララエが妬ましかった。
あの極悪非道で冷酷な男は最後に涙を流した。娘の名を呼んで、ない腕を伸ばそうと動かぬ体でララエの傍に行こうとした。最後の時は娘の死に本物の涙を浮かべて死んでいった。
喜んでいい筈だった。憎い男に同じ苦しみを与えてやったと満たされる筈だった。それなのに、ロウは惨めで、ロウの憎悪がより一層増した。
どうして、こんな獣にも劣る男が娘を愛するのか。ロウのような美貌もなく醜いばかりのララエを本気で愛するような男ではない筈なのに。
家畜以下の人間が最も高尚な愛を知っているのが許せなかった。
どんな父親だろうと無償の愛を与えられたララエがロウには許しがたかった。
ロウの怒りは理不尽なものなのだろうか。
ララエとロウは何もかも正反対だった。
ララエは生まれ故にほとんどの人間から憎まれ、その醜い姿は蔑まれていた。
ロウはその美貌故にほとんどの人間から愛された。女も時には男もロウを欲しがった。ロウを見つめる目に触れる手に汚い欲望が垣間見えた。その度にロウは拭い難い汚物を塗り込められて、自分が醜く変わって行くような気がしていた。
外見が醜いララエと内面が醜いロウ。だからロウには与えられなかったのだろうか。
エリーはロウに抱いて欲しいと言った。例えエリーを愛していてもロウが抱く事はなかっただろう。ロウには出来ないのだ、女でも男でも誰であっても。
無償の愛を与えてくれる筈の父親に母親の代わりに犯されてから、ロウは誰も抱けない。
ララエの父親が家畜以下なら、息子を犯す父親は何なのか。狂っていたのだと思うしかない。そして狂った男に犯されたロウも又狂ってしまったのだ。
誰であれ人に触れられるのは嫌悪と恐怖しかない。
例外は二人だけだった。触れられて平気でいられたのはたった二人だけ。一人は母親だった。優しい母の手は安心しかロウに与えなかった。
そしてもう一人はロウが今日この手で殺した。
手に持った種が零れ落ちた。崩れ落ちたロウの手が土を掴む。手の傷が土で汚れ、ロウの血が大地に染みこむ。
どうしてララエなのだろう。よりにもよってロウの不幸の元凶のすべてである、あの男の娘なのだろう。
あの手には、瞳には欲望が灯る事がなかった。成長してロウに向ける感情が恋慕に変わっても、そこには劣情が宿る事はなかった。何も望まない無償の愛がそこにあった。
ロウには一生与えられない愛を持っていたのがララエだった。気付いてはいけなかった。それを認める事がどうしてロウに出来ただろう。
小さく柔らかい温かな手をロウは覚えている。必死にその感触を感じまいとした。心を動かされる事を何よりも恐れた。
ロウは誰に言われるまでもなく知っていた。ララエは無垢で純粋だった。それはロウにとって救いにはならなかった。領主と同じように欲に塗れた酷い人間であった方がロウには余程救いだったろう。
―――永遠に失った。
胸を突く深い喪失がロウにはもう何も残っていない事を知らしめた。ロウの手からすべて零れ落ちた。外見だけは整った空虚な中身を抱えて、これからロウは生きなければならない。
あの時に死ねば良かったと思う。領主に捕らえられララエに出会ったあの時に死んでいれば良かった。
種の上にいくつもの水滴が落ちる。とうの昔に泣く事を忘れたロウには自分が泣いているのがわからない。
ララエと見たあの光景を思い出す。湖の畔でミズホの花に埋もれて青い空を見た。ララエはロウを真剣な目で見て熱心に手を動かしていた。時折口角を上げて満足そうな息を吐く。絵を描くのに飽きたらリンガルを手に持って美しい旋律を奏でた。
あの時、ロウは何も思っていなかった。何かを感じる事を自分に禁じていた。だから、その幸福を知らない。知らないままここまで来てしまった。
溢れる涙がロウの頬を濡らす。そのままロウは土の上に倒れ込んだ。
もしも、この毒の地でララエの体を苗床にしてこの花が咲く時が来たら、その時が来たら。
―――もう、許してもいいだろうか。
ララエを許す自分を許しても。あの男の娘ではなくただのララエとして向き合ってもいいだろうか。
この花が咲いたら。
『花に生まれてくればええ』
アルトの優しい言葉を思い出す。本当にそうだとロウは思った。ミズホの花に生まれかわったら、ロウはきっと可愛がる。今度こそ間違えないように愛するから―――。
ロウの涙が憎しみを溶かしながらララエの眠る土に染み込んでいく。土を抱くように両手に抱えロウはいつまでも動かなかった。
完
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