ロウ8
ジャスは領主の私兵と化している自警団に傭兵として雇われる事になった。年々自警団の規模は大きくなっており、外から来る人間がほとんどであったため潜り込み易かったのだ。
その傍らで秘密裏にロウに剣を教え鍛えた。ロウは非常に熱心で才能のある生徒だった。何を思ってロウが剣を手に取ったのか分かっていたジャスは間者の役割を喜んで引き受けた。彼にも領主を恨む気持ちが多大にあったのだ。
ロウ達が予想出来なかった事態がある。ロウの様子に気付いた若者達が賛同して剣を教わり出した事だ。こうして領主打倒の意志は密やかに人々の心に広がっていった。
ロウは何度説得してもエリーがララエの屋敷で働くのを止められなかった。エリー両親も諦め気味で、ロウに宜しく頼むと頭を下げられれば何も言えなかった。
ロウが庭師として屋敷にやって来るとエリーは喜んでロウに屋敷で起こった些細な事も話して聞かせた。
エリーの愛らしい顔は目から下を布で覆われて前髪の隙間からエメラルドグリーンの瞳だけが覘いている。最初にちょっとした細工を施してエリーは顔に醜い火傷を負った哀れな少女を演じている。そのお蔭でエリーの布を取って顔を拝んでやろうとする輩はおらず、領主の関心もエリーに向けられる事はなかった。
ロウが花の剪定をしている傍らで口を動かしながらエリーは雑草を抜いている。
「もうね、周りが年寄ばかりなの。お嬢様の世話をしてるのか、他の侍女達の世話をしてるのか、わかんなくなりそうなの。口を開けばあそこが痛いここが痛いって言われて、おしゃべり出来そうな人もいないし」
エリーの言うようにエリー以外の侍女は全員年配の者ばかりで、腰が痛いとか膝が痛むとか、体の不調を訴えて体力のいる仕事はエリーの担当になってしまっていた。話も世代が離れているから若々しい会話がない。別に年寄との会話が嫌なわけではないのが、感覚の違いは否めない。同世代と言えばララエだけになるわけだが。
「お嬢様はあんまり手はかからないのだけど、部屋に籠ってひたすら暗いの。なんか不気味なのよね。あ、知ってる?屋敷に飾られている綺麗な絵があるんだけど。それをお嬢様が子供の時に描いたって言うのよ?とても信じられないわ。今も何か一日中描いてるみたいだけど、誰にも見せてくれないし、完成する気配もないのよ。本当に絵なんか描けるのかしら。日中ほとんど動かないくせに食べる量だけは人一倍なのよね。毎日凄い豪華な料理なのよ?あれで太らないわけないわ。去年のドレスが入らなくて直さなくちゃいけないのよね。他の人は目が見えないっていうからまた仕事押し付けられちゃうし。あ、そうだわ」
延々と話し続けるのかと思ったエリーは話を切ると自分のポケットを漁った。手の平には糖衣を施したお菓子が乗っている。
「はい、これをロウに」
子供の頃にここで良く食べたお菓子だ。何故か女達はロウにお菓子を与えたがる。ロウが受け取るとエリーは嬉しそうににっこり笑った。
「また持ってくるからね」
存外、エリーは楽しそうに働いている。ロウは複雑な溜息を吐き出した。
「………あまり目立つような行動はとるなよ?」
「わかってるよ。私、上手くやってるでしょ?」
エリーの目が褒められるのを期待して輝いた。顔を隠し体型も詰め物をして変えている。これが町一番の器量良しとは思われないだろうという自信があるのだ。
「………無茶はするなよ?」
本当は今すぐにでも連れ出したいのだ。この別邸は領主が来なければ安全な場所ではあるが、領主に遭遇する確率は高くなる。領主の残虐さは年々酷くなる一方だった。
エリーの得られる情報はジャスが簡単に得られるものだ。エリーがここにいる意味は殆どないのだと素直に納得してくれればいいのだが、逆にむきになって無茶な行動に出られるのが怖かった。
「いつでも辞めていいんだからな」
「わかってるって。ふふっ、心配してくれてありがとう」
真剣にロウが自分の心配してくれていると思うとエリーの胸は嬉しさで一杯になる。幼なじみ以上の感情を抱いてくれるかもしれないという期待で顔を輝かせているエリーは、この時全くわかっていなかった。
領主の圧政に疲弊した民を装いながら、ロウ達の活動は水面下で慎重に進行している。ロウ達の結束は固くジャスは優秀な教師であり指揮官だった。ただの田舎の若者達を軍隊のように鍛えている。
毎夜ロウは出来る時間の全てを費やして体を鍛えた。今度こそ本懐を遂げるために手に血が滲んでも剣を握り続けた。
そんな日々を続けていたからかもしれない。迂闊にもララエの屋敷の庭で寝入ってしまっていた。
ロウの目覚めはいつも一瞬だ。瞬時に状況を理解すると予告動作など何もなくいきなり体を起こした。
驚いたのはロウよりも相手だったかもしれない。少し離れた場所でロウを観察していたその人物は飛び上がらんばかりに驚いて白い顔を赤く染める。ロウと目が合うと眦を引きつらせ巨体を翻し慌てふためいて逃げ出した。
ララエだった。あんなに太って醜い姿はこの屋敷ではララエしかあり得ない。くすんだ灰色の髪も、肉に埋もれた小さな瞳も、別れた時のまま昔と少しも変っていなかった。
余程焦ったのだろうララエが居た場所にスケッチブックが落ちていた。それを拾い上げるとロウは目を瞠った。
そこにはロウが描かれている。スケッチブックをめくって現れるのは様々な年代のロウばかりだった。これだけロウで埋め尽くされればララエのロウへの執着が良くわかる。子供の頃から今でもロウはララエの人形なのだ。
不愉快だった。ララエの執着はロウをとても不快にさせた。飽きたと言ってロウを捨てたからではない。
呆れるほど昔のままのララエだからだ。愚かな子供のままの。ララエは自分がどんな立場の子供を望んだのかいまだに理解していない。ロウがどんな気持ちで大人しく人形に徹しなければならなかったか。ララエの立場が父親も母親も奪われたロウにとってどれ程のものなのか。
ララエは今まで少しも考えた事がないのだろう。美しく守られた箱庭で何も学ばず、外の世界で何人もの人間が犠牲になってララエの生活を支えている事を。いつまでも無邪気なままで。
ロウはスケッチブックを投げ捨てて踏みにじった。泥がつき紙が破れていくつものロウの顔が歪む。それでも気は収まらずそれを不快気に見下ろすとポケットを探って枯れ葉を燃やすために持っていたマッチを取り出した。火をつけてスケッチブックの上に落とした。
メラメラと燃え上がる炎から目が離せなかった。灰になっていくのをいつまでも見入っていた。
あの日以降ララエが遠くからロウを窺っているのが目につくようになった。ララエの気が緩んでいるのか、ロウが気にするようになったのか。
見つけてしまえばロウは気が付かない振りをしてやり過ごしていた。ララエの視界に入るのも入れるのも不愉快だったから、なるべく早く立ち去るようにしていた。
今もララエはロウとエリーを覘き見ている。
ララエはロウとエリーが親しい事を知っているだろう。不可解なのはロウにあれだけの執着を見せておきながらエリーに対する態度に嫉妬が見られない事だ。
「ロウ?どうかした?」
今日もエリーの顔は布で覆われている。美しい髪は一つに纏められて窮屈そうだ。今が盛りの若い娘のする格好ではなかった。
ララエは若い娘や美しい娘を傍に置く事を嫌がっている。自分と比較される対象が嫌なのだ。
不意にロウが気まぐれを起こした。エリーの手を引いてララエの方に近づいて行く。
突然のロウの行動にエリーは驚いて繋がれた手を見つめた。ロウは自分から身体的接触を今までしたりしなかった。布で隠された頬がバラ色に染まる。
ララエが焦っている滑稽な姿を目に移して、ロウはララエに背を向けた。エリーはララエからロウが邪魔で見えない筈だ。エリーの顔から布を外す。何かを期待してエリーの翡翠の瞳は熱に潤みうっとりとロウを見上げていたが、ロウの意識は後ろのララエに集中していた。
「………ロウ」
甘ったるい声でロウを呼ぶ。普段では考えられないロウの行動を疑問に思う余裕もない位に頭に血が昇っている。期待でエリーの心臓が壊れそうだった。
いつも夢に見ていた。美しいロウが愛を囁き触れてくれるのを。
ロウの美しい顔が近づいて来る。嬉しさと羞恥心で目を閉じたエリーにはロウの空色の瞳に同じ熱が宿っていないのを見ずに済んだ。
「ん」
初めてのロウの口づけは額だった。ロウの唇がエリーに初めて触れたのだ。エリーは浮足立った。頭がくらくらして全身の力が抜けてロウに縋った。
ロウはエリーを抱き返しながら体の向きをさり気無く変えた。
隠れるのも忘れて呆然とこちらを見ているララエがいる。表情は凍りつき、小さな目から止めどなく涙が流れ落ちる。醜くい分一層哀れな姿だった。
ロウの口角がゆっくりと上がる。初めてララエに向けた美しい笑顔。ララエの心が流す鮮血がロウには見えた。ララエの絶望はとても甘美で、ロウの心を満たし恍惚とさせた。
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