ロウ9

 その年は天候不順が続き作物の収穫量が例年の二分の一程で深刻な食糧難だった。加えてこの地方を襲った寒波が領民達を苦しめて、領主への不満と憎しみを募らせていた。そんな中で事件は起こった。


 大地は深い雪に覆われて白く塗り潰されている。明け方の一番冷え込む時にロウの家のドアを乱暴に叩く者がいた。


 ロウはジャスだと思った。彼は人目のつかない時間帯に良くロウの家を訪れていた。だからロウは特に疑問に思わずドアを開けた。


 冬の冷気と一緒にロウの胸に飛び込んできたのはエリーだった。エリーは強い力でロウに縋りつくと嗚咽を漏らす。


 エリーは外套を羽織っていたが足は素足だった。雪の上を歩いてきたのだろう真っ赤になっている。ロウに縋る体は氷の如く冷たい。


「何があったんだ?エリー?ちょっと離れて」


 引き離そうとすると必死にロウにしがみ付いて来る。嫌がる体を離し俯くエリーの顔を無理やり上げさせて息を飲んだ。


 エリーの愛らしい顔は涙に塗れて目は腫れ真っ赤に充血している、唇は切れて血が滲み頬には人の手形と思われる跡が浮かんで赤く腫れている。

 

 どう見ても暴行の痕だった。ロウが息を飲む。


「う、わぁ…や………ロ、ウ」


 前が肌蹴た上着の下は薄い夜着だけを纏っている。その服も破かれて無残な姿だった。破けた胸元から丸く張りのある膨らみが半分以上出ている。白い肌には沢山のうっ血が散って、強い力で捕まれたのだろう手指の痕もある。下肢は大腿部まで丸見えで内腿には白濁と血が混じり合いこびりついていた。


 最悪の事がエリーの身に起こったのだ。ロウは言葉を失い蒼褪めた。

 エリーは必死でロウに手を伸ばす。


「やだっ、ロウ、ロウ!!」


 硬直するロウの首に腕を回して再び縋りつく。


「お願いっ、抱いてっ。うっ、ふぇ、お願いっ」


 ロウは答えられない。氷のようなエリーの体がロウから体温を奪って行く。傷ついているエリーを抱き返すべき腕が動かない。


 ロウの胸に顔を押し当ててエリーが悲嘆にくれる。


「わ、わ、わたし、け、がされ、なんかいない、わっ。あ…んなの、ちが……う」


 激しく頭を振るとエリーは自分で上着を脱いだ。体にまとわりついている破れた夜着も脱ごうとした。


「ダメだ!」


 咄嗟にエリーの手首をつかむ。そこにも強く掴まれた跡が残っていてロウを狼狽えさせた。


「………どう、してぇ?どうしてダメなのぉ?ロウ、キスしてくれたじゃない?っふ、うっ………穢された、から、わたし、きたな、いっ?」

「違うっ!!」

「なら抱いてよ!!!」


 叫ぶとロウに滅茶苦茶に体を押し付ける。


「エリーっ」


 エリーの力に押されてロウが床に倒れ込む。ロウを上から押さえつけたエリーの唇がロウの唇を強引に塞いだ。歯と歯がぶつかる。エリーの傷ついた唇から血が滲みロウの口内に血の味が広がる。


「!!」


 エリーの手がロウの手をとってむき出しの自分の乳房に導いた。


「やめろ!!」


 ロウが引き離そうと込めた力はエリーの体を床に打ち付けた。


 蹂躙された華奢な体を晒してエリーは震えながら床に蹲った。枯れる事のない涙が頬を流れ続けていた。己の体を抱いて体を揺する。嗚咽が段々大きくなり獣じみた絶叫に変わる。


「う、えっ、うぅぅぅ、うっああああああああああああああああああああああああああ!!!うああああああああああああああああああああ!!!」


 慟哭がロウの心を貫いた。心を狂わすような叫びはロウの息を止めた。


 扉が再び叩かれる音はロウの耳に入って来なかった。肩を引かれてジャスに気付く。


「何があったんです!!これはどういう事ですか!?」


 エリーの絶叫がロウの意識を絡めとっていた。反応の薄いロウに痺れを切らしてジャスが蹲るエリーに近づく。気が触れたように叫び続けるエリーを危険だと感じたのだろう、首筋に手刀を当てた。


 崩れ落ちるエリーを受け止めて着ていた上着でエリーを包む。ジャスが鋭い目でロウを見た。強い眼力に押されてロウが後ずさる。


「医者を………医者を、呼んでくる」

「駄目です。私が行きましょう。今の貴方は冷静じゃない」

「いや、俺が行く。エリーを頼む。足が凍傷になっているかもしれない。温めてやってくれ」

「ロウ!!」


 逃げるようにその場を離れた。


 雪の上に吐瀉物をぶちまけた。先程から体の震えが止まらない。手で顔を覆う。歯を食いしばり固く目を瞑る。エリーの絶叫が今も頭に響いている。


 エリーはロウの母親だった。そしてロウ自身でもあった。何度でも繰り返される現実は 領主が生きている限り終わりがない。




 ロウが医者とエリーの両親を連れて戻るとエリーは眠っていた。ジャスが出来るだけの事をしたお蔭で、エリーは凍傷にならずに済みそうだった。エリーの両親はエリーを見て泣いた。医者が二人を宥めると母親だけを連れてエリーの診察に当たった。


 エリーの診察を医者は丁寧に行った。今家の中には医者とエリー達親子しかいない。ロウは外に出て白く染まった景色を眺めていた。


 背後からジャスが上着をロウの肩に掛けた。


「そのままでは風邪を引きます」


 ロウの顔色は青白く血の気を全くなかった。吐く息さえ凍りそうな朝なのにロウはシャツだけの姿だった。


 上着はジャスのものだった。ロウは上着に手をかけてジャスに返す。


「いや、大丈夫だ」


 渋るジャスの胸板に強引に上着を押し付けた。

 ジャスは時々ロウを女子供のように扱う時がある。この顔のせいなのは分かっていた。


「エリーは?」

「薬のお蔭で落ち着いています。もうしばらく鎮静剤は続けた方がいいでしょうね」

「体は?」

「外傷なら時間の経過と共に良くなるだろうと」


 だが、心は、心はどうなるのだろう。

 二人の間に重苦しい沈黙が流れた。


「………蜂起は避けられないでしょう」

「むしろ遅過ぎたくらいだ」


 呟いた声は大気と同じように冷たく凍っていた。




 エリーの事件が領民達の憎しみを爆発させる結果となった。領主側の誤算は軍人であるジャスがいた事だ。彼は緻密で慎重な計画を立て、領民だけではなく彼の傭兵仲間達を領主の私兵に多く紛れ込ませていた。


「領主側の主だった人間と自警団、両方を同時に制圧する必要があります。出来れば数時間以内。我々には時間をかける余裕はありません」

「都からの援軍か」

「ええ、領主と中央の癒着はかなり強い。下手をすれば地方の反乱ではなく国賊というレッテルを貼られかねない」


 ジャスはかなりのコネを持つようで短期間の内に領主を調べ上げていた。


「自警団の制圧は簡単ではないだろうな」


 年々強化されていった自警団は数も多く屈強な傭兵が殆どだ。それに比べてロウ達は数も少なく戦闘経験のない平民ばかりだ。どれ程体を鍛えようと実力の差は歴然だった。


「その辺りは私に任せて頂ければ。何も正攻法でぶつかる必要はありません。幸い自警団の多くは外から来た者ばかりです。こちらの毒に慣れていない者が殆どですから」


 飲み水か食べ物に混ぜれば上手くいけば戦闘不能に出来る。毒に慣れた地元の人間では思いつかない考えだった。


「それと、これは他の者達にも徹底させて頂きたいのですが、出来るだけ無血で反乱を成功させたいのです」

「………誰も殺すなと?」


 ロウが眉を顰める。いくら毒を上手く使えたとしても戦闘は免れないと思われた。相手を生かしながら戦う事はただ殺すよりも困難に思える。


 一方ジャスは成功を疑っていなかった。彼の目はその先を見据えていた。


「国との交渉の際にはこちらの有利に働きます」


 反乱に勝利しても国から国益を掠め取った盗人にされては裁かれる。あくまでロウ達は領主の非道に耐え兼ねての反乱だと主張しなければならない。余りある領主の極悪非道な罪状に無血の勝利が欲しいのだ。


「領主親子は無理だろう」

「それは承知しています」


 人々の不幸の根幹だ。ここには殺さずに許せる者などいないだろう。


 ロウがジャスを見据える。ロウの瞳はあの朝以来凍ったままだった。張り詰めた糸のように危うく、美しく透徹とした青は温かみを失くし見る者を竦ませる。


 憎しみと復讐だけがロウを支えている。


 他の誰でもないロウが領主親子に手を下す事になるのをジャスは感じていた。

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