ロウ7
春の初めの冷え込んだ朝にロウを息子と認識出来ないままロウの父親は静かに息を引き取った。最後に流した父親の涙の意味はロウにわからない。声に出さず呟いたのは母親の名前だったような気がした。
葬儀はしめやかに行われた。訪れる人は父親の知人よりもロウを心配する人の方が多かった。慰めの言葉はすべて上滑りしていった。
肉親を亡くして生まれる筈の哀しみはなかった。だからと言って安堵が広がるわけでもない。ただ終わったのだとしか思えないロウはどこか壊れている。
ぼんやりしているロウの腕を引く者がいる。咄嗟に腕を振って振り払った。
「ロウ、大丈夫?」
下からのぞき込んでくるは大きな瞳の整った愛らしい顔、ロウと同じ年の幼馴染のエリーだった。彼女は葬儀の手伝いを買って出てくれていた。
「悪い………、皆はもう帰った?」
「うん。後は私達だけだよ」
「そうか。エリーも帰っていいよ。今日は色々ありがとう」
「うん。………ねぇ、今日はうちに来ない?」
そう言ってロウの冷えた手を白く華奢な両手で握った。今度は振り払うのを我慢した。
「どうして?」
「ロウ一人だと心配だわ」
自殺でもすると思われているのだろうか。見当違いの心配に苦笑が漏れる。陰を帯びたロウの笑みにエリーが呆けた隙にさりげなく手を引き剥いた。
「一人で平気だ」
ロウの手が擦り剥けた己の手を見てエリーは眉を顰め溜息をついた。彼が素っ気無いのは何時もの事だった。甘えてくれればいいのにといつも思う。頼ってくれないのはとても悔しかった。ロウに見惚れるだけの他の女達と自分は違うと思っていた。
哀しみに沈んでいてもロウは美しく魅力的だ。女性よりもずっと綺麗で人を惑わす色気があった。女達はそんなロウに夢中になっている。エリーは気が気ではなかった。
(私はロウの役に立てるもの)
エリーはそれを証明するように扉に向かうロウの背中に声をかけた。
「………私、今度、領主の別邸で働くことになったの」
喜んでくれると思った相手の反応は芳しくなかった。振り返ったロウは秀麗な眉を顰めて難しい顔をした。
「馬鹿な事をする。領主に目を付けられたどうするつもりだ?」
年々領主の非道は酷くなる一方だった。未婚既婚問わず気に入った女を浚って犯す事も平然とする。権力に物を言わせて最もらしい事情をねつ造し、被害者は口を閉ざすしかない。
男達は女を守るために必死になっている。エリーの両親も同じだ。ましてやエリーはこの辺りでは一番の器量良しだった。彼女の両親はエリーをなるべく外に出さないように、人前で素顔をさらさないように育てて来た。
もしも、ロウの母親のようになりでもしたら。
ロウの背筋に冷たい汗が流れた。
「酷い目に会いたくないなら家に居ろ。おじさんが守ってくれる。何かあってからじゃ遅いんだぞ」
優しく諭すつもりが冷たい物言いになった。ロウも疲れていた。これ以上の不幸は見たくなかった。
案の定エリーは傷付いた顔をした。ロウのために無茶をしたのに。領主をずっと気にしているロウに、エリーならもっと凄い情報を渡せるかもしれないのに。
「大丈夫よ。私に秘策があるの。絶対にあの男は私に興味をもたないわ」
自信満々に言い切った。最終的にロウはエリーに感謝する筈だと思った。その他大勢とは違う、エリーがロウにとって必要な存在だと認めてくれる。
「やめてくれ!俺のためだと思っているなら尚更だ」
エリーがロウに好意を持っているのを知っている。エリーは隠す事のない恋情をロウにぶつけて来る。だが、今回はやり過ぎだった。
エリーは頷かず頑固に言い張った。
「もう決めたの」
怒鳴りそうになるのをロウは堪えた。エリーは叱れば叱るだけ意固地になる性格だ。
「………どうしたらやめてくれる?」
ロウの懇願にエリーは愛らしい頬を薔薇色に染め、上目遣いでロウに強請った。
「私をロウの恋人にして」
「………」
黙り込んでしまうロウにエリーは失望を覚えた。
ほら、やっぱりロウは頷いてはくれない。だからエリーは止めるわけにはいかないのだ。出会った時からロウがとても、とても好きだった。エリーには沢山のライバルがいる。いつまでも同じラインに並び立つのは嫌だった。そこから抜け出すチャンスを無駄にしたくない。
「絶対にやめない!」
そう宣言するとエリーはロウの元から逃げ出した。
一人になったロウは一気に疲労感が襲ってきた。椅子にぐったりして体を投げ出してこめかみを揉む。酷い頭痛がする。エリーをどうすればいいのか考えるのも億劫だった。
物事はいつもロウが望まぬ方向に進む。一つくらいロウの思い通りになってもいい筈だ。
天井を睨み付けてロウは一つの決意をした。
父親はもういないのだ。今度こそ母親を救い出そう。ロウがここを去ればエリーも馬鹿な行動を起こす必要もなくなる。
同じように苦しむ人たちを見捨てるような罪悪感がないわけではない。ここ数年ここを離れる若者は増加している。逃げられる者は逃げればいいと思う。それを咎める事は出来ないだろう。
苦い思いを噛みしめる。それはいつだってロウの人生の味だ。
もの思いに耽っていると扉が叩かれる音が響いた。
今日はもう来客は無い筈だ。エリーが戻って来たのかとロウは重い腰を上げた。
「エリー?」
扉の傍に立っていたのは父親と同じような年代の男だった。威風堂々とした筋肉に覆われ鍛えられた肉体は服の上からでもわかる、軍人の体格だ。見たことのない男だった。領主が雇っている傭兵かと警戒の色を濃くした。
ロウの美貌を目の当たりにした男の茶色の瞳が突然潤んだ。
「ジュリアーナ様………」
「!?」
驚くロウの前で母の名前を口にした男は跪き外聞も何もなく泣き始めた。
男はジャスと名乗った。ジャスは長い話をロウに語って聞かせた。それは両親の物語だった。
両親とジャスの故郷はここよりもずっと遠い国にある。母親は高貴な血筋の大貴族の一人娘だった。対する父親は貴族の地位の末席に名を連ねるだけの貧乏貴族。二人の結婚が反対されるのは誰の目にも明らかだった。激怒したロウの祖父母から逃れるように二人は駆け落ちした。執拗な追っ手を逃れて二人が辿りついたのがこの地だった。
ロウは幼い頃に母が語ったお伽噺を思い出していた。物語の結末にしてはあまりに悲惨だ。今なら母親もお伽噺には出来ないだろう。
ジャスはジュリアーナに剣を捧げた騎士だった。当時はまだ見習いだった彼は数年後祖父に命令されてジュリアーナを探す旅に出たのだ。
「これを見て下さい」
差し出されたのはロウの記憶にある優美な短剣だった。領主に捕らえられて失くした短剣だ。手に取ればあの頃よりもロウの手に馴染んだ。
「これが闇市で売られていました。家紋を施したジュリアーナ様の短剣です。このお蔭で私はやっと手掛かりを見つけたのです」
男の目は未だに泣き腫らして充血していた。ジャスの体に緊張が走っている。不自然に力を入れ過ぎた腕の筋肉が盛り上がった。強張った顔で酷く言い辛そうに口を開いた。
「私はジュリアーナ様を見つける事が出来ました」
ロウが椅子から立ち上がった。体を前に傾けて向かいに座るジャスのシャツを掴み詰め寄る。
「どこにっ!どこに母さんはいるんだっ!?」
ジャスの目に苦痛が浮かぶ。
「ジュリアーナ様は、高級娼館に隠されておいででした。………私がお探し出来た時には、もう、助けられない状態で………最後に、貴方の事を、とても、心配されていた………」
ロウの瞳に光が失われて行く。蒼褪め体がどうしょうもなく震えた。力なく椅子に背を預け、呆然と呟いた。
「俺は、間に合わなかった………?」
ジャスは頭を床に擦り付けて平伏した。
「申し訳ありません!!私がもう少し早くお助け出来ていたらっ!!!」
どうしてジャスが謝るのだ。母親が死んだのは彼のせいではない。ロウのせいだ。ロウが父親を見捨てられなかったせいで、母親を見捨てたから。
(母さんが死んだ………)
どうして一番罪の無い者が死ぬのだ。一番弱く、それ故に犠牲になった優しい人が。
ロウが望んだたった一つの未来。
5年前に母親を救えていれば。それよりもロウが領主を殺していれば母親は生きていた筈だ。
領主への憎しみはそのまま何も出来なかったロウ自身に向けられた。
思考が赤く染まる。手にしていた短剣を鞘から抜いた。自分が何をしているか自覚はなかった。衝動のままに自分に向かって剣を振り降ろす。
気が付いたらジャスに引き倒され体を拘束されていた。鍛えられた男の体から逃れられない。熱く重い体、押さえつけられる恐怖。全身に鳥肌が立ち怖気が走る。昔の残像が蘇りそうになる。
「離せっ、………馬鹿な真似はしない」
躊躇いながらジャスはロウを解放した。ロウは床に転がったまま何度も荒い息をつく。離れた処に短剣が転がっていた。
自分に向けた殺意は消えていた。ロウは死にたかったのではない。自分を殺したかったのだ。
差し出される手をロウは拒絶した。何とか半身を起こす。傍らにいたジャスはもう一度ロウに向かって頭を垂れた。
「私はジュリアーナ様の騎士でした。ジュリアーナ様亡き今は、貴方の騎士としてお仕えする事を許して頂きたいのです」
荒唐無稽な話だ。ロウに仕えてこの男に何の得がある。誰かの主人になれる様な身分もなければ気力もなかった。
「………俺は貴族じゃない」
「いいえ、貴方は私がお仕えすべき主人です」
確信を持ってジャスはロウを見つめた。ロウは首を振るしかない。
「それは、爺さんだろ」
「出来れば、貴方を故郷にお連れしたい。閣下はきっと喜んで下さる」
顔も見たことがない祖父が存在も知らない孫を喜ぶとは思えない。それはロウにも当てはまる。
「俺の肉親はもういない」
自身で放った言葉がロウの心を抉った。悲しみがロウの目を虚ろにした。生きる気力が急激にロウの中から失われ温もりのない空洞が広がる。
見た目よりも情に脆い男は悲痛な顔をする。騎士としては優秀なのだろう。ロウを取り押さえた手腕一つ見ても無駄がなかった。もしもロウにこの男のような力量があったなら全てが変わっていた。
生きる希望も意味も失ったロウの中に一つだけ残る物があった。昏く燃える憎悪が。それを意識した途端ロウの目に力が宿った。
「あんたの主人にはなれないが、あんたに頼みがある」
落胆を隠せなかった男は肩を跳ねあがらせた。
「私に出来ることなら何なりと」
ロウは薄らと壮絶に美しく笑った。もうロウを押し留めるものは何もない。昏く燃える炎に焼かれてしまえばいい。魂だって捧げられる。
「俺に剣の扱いを教えてくれ」
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