ロウ6

 どういう心境の変化がララエにあったのか誰も知らない。それはあまりに突然で予想出来た者はいなかった。前日までロウを片時も離さなかったララエが青白い顔でロウに告げた。


「おまえはもういらないわ。あきたの」


 集められた屋敷の者達は皆驚いていた。ララエがロウに飽きる事など天地がひっくり返ってもあり得ない事だと思っていたからだ。


 侍女達の中にはララエの言いように腹を立てながら内心では喜んでいる者がいた。ロウがララエのものでなくなれば美しいロウが手に入るかも知れないからだ。ララエよりも数倍ましな自分がロウを救えるのだと胸を高鳴らせている。


「それは、ロウを解雇すると言うことですか?」


 頷くことで答えたララエはじっとロウを見つめた。ロウは動揺もなく冷静に話を受け止めているように見えた。


 気軽に物か何かを捨てるような傲慢な言い方は意図的に人を傷つけようとする意志が透けて見える。だが、ララエの腫れぼったく赤く充血した目や不自然に強張った顔が全てを台無しにしていた。


 ララエは何かを言いかけたがグッと口を引き結んだ。手がドレスを掴み、皺を作る。何かを我慢する時のララエの癖だった。


「ロウだけじゃなない。あなたたちもよ」


 ただ眺めるだけだった侍女達に向かって指をさす。自分達にまで矛先が向いて彼女達は途端に騒ぎ出した。


「どうしてですか!?」

「私達が何をしたっていうのよ!?」

「今まであんなに良くしてあげたのに!」


 ララエに詰め寄らんばかりの行動に傍で控えていた執事が止めに入る。


「こらっ、お前達止めないか!!お嬢様に向かって!」

「だって酷いじゃないですか!!」

「横暴よ!」

「私達真面目に仕事をしていたわ!」

「そうよ。嫌な顔一つせずに優しくしてあげたじゃないの!」


 今度は執事に向かって口々に文句を捲くし立てる。


 ララエは机に置いてあったティーポットを掴みあげると思いっきり床に投げつけた。陶器で出来たティーポットはひとたまりもない。室内は静まり返った。


 ララエの荒い呼吸だけがその場に響く。砕けた破片がララエの頬を傷つけ血が流れた。ララエは侍女達を精一杯睨み付けた。


「あきたの。もう、いらないの。ロウもあなたたちも。こんな風になりたくないなら出ていって」


 暴力とは無縁のララエが見せた暴挙に侍女達は蒼褪め震えた。ララエがあの冷酷非道な男の娘だと思い出したのかもしれない。


 ララエも震えていたかもしれない。セリフとは裏腹に声には悲しみが宿っていたかもしれない。


 ロウはララエの心情を知りたいとも解雇される理由が知りたいとも思わない。不当だと騒ぐ気もない。今まで拘束されていたことこそが不当だった。


 誰もが動けずにいた中でロウは誰よりも速やかにその場を辞した。ララエに向ける言葉も僅かな感情の機微もなく背を向けた。


 ロウが今まで大人しく捕らわれていたのは領主に母親を人質に取られていたからだ。下手に反抗して母親に手を出されるのが怖かった。大人しくララエの人形でいるしか母親のためにロウが出来る事がなかった。


 母親の行方は依然わかっていない。ここではなく、王都に連れて行かれた事だけがわかっている。


 2年間忘れた事はない。ずっと考えていた。母親を探して救い出す事。母を助けられたならどこか遠くに逃げてもいいと思っていた。


 思いがけず手に入れた自由を無駄にしたくない。




 ララエの屋敷を出てロウがまず向かった先は一度も帰る事のなかった家だった。領主の口ぶりで父親が何か知っている可能性があったからだ。


 ララエの元にいても時折父の噂を聞いた。まともな生活を送っているようには思えず、ロウの知らない間に死ぬのではないかと思っていた。


 自宅の入口に佇んでドアに手をかけた。懐かしいと言えばいいのか、見慣れた現実がそこには広がっていた。狭い部屋には乱雑にモノが配置されどこか埃っぽい。机の上には飲みかけのグラス。椅子には脱ぎ捨てられた服。何かわからない染みのついた壁。床には酒瓶が転がっている。ララエの美しい屋敷に比べればごみ溜めだった。


 歩けば床が軋む。ロウの体重が増えた分だけ軋みが大きい気がした。


「………誰かいるのか?」


 奥から掠れた男の声が聞こえた。


 覚悟は出来ていた筈だ。それにもかかわらず、ロウの心臓が竦み上がる。与えられた暴力と恐怖を体は記憶していた。


 ロウが動けず固まっていると足を引きずる音が近づいて来る。


「盗人か?ここには盗るようなものは何もないぞ」


 その口調や声を覚えている。母親が居なくなってから優しさが宿る事もなく常に不機嫌な声。


 固唾を飲んだ。現れたのは予想通り父親で、驚きにロウは言葉を失った。


 記憶にあるよりもずっと小さく、哀れな年老いた男がいた。髪には白いものが多く混じり肌はくすみやつれて目が落ち窪んでいる。痩せて細い体は前に傾むき杖を失くしては歩けまい。実年齢よりももっとずっと年を取ってみえる。かつての男ぶりは見る影もない。


 簡単にロウをねじ伏せ暴力で支配していた男とは別人だった。2年の歳月が父親から若さを全て奪い去っていた。


 何も言わない相手に父親は訝し気に眉を顰めた。


「誰だ?」


 再び誰何する声に訝しく思うのはロウの方だった。目の前にいる自分の息子がわからないのだろうか。狂う程執着していた、愛する妻に似たこの顔が。


 注意深く父親を観察すると目の焦点が合っていなかった。ロウとよく似た青い瞳は濁って光を失っている。


 ロウは目を瞠った。鉱山で働く者の逃れられない宿命がある。


 ―――毒だ。鉱山の毒に冒されて父親は視力を奪われている。


「父、さん………」


 呆然として呟けば、父親は信じ難い事を言った。


「私に息子はいないが」


 冗談や嘘を言っているようには見えなかった。自分の足元に大きな闇が広がるのを感じる。気を抜けば闇に捕らわれる。急激に喉の渇きを覚えて唾を飲み込んだ。何度か空気を吸い込んで慎重に言葉を重ねる。


「ロウだ、あんたの息子の」


 父親は眉を吊り上げて見えない目でロウを不愉快そうに睨んだ。


「私に子供はいないと言っているだろう!死にぞこないと思って侮るんじゃない!!そんな嘘に騙されるものか!痛い目にあいたくなければここから出て行け!!」


 興奮して捲し立て、杖を振り回しロウに掴みかかろうとしたが目測を誤って転んだ。


「くそっ!!馬鹿にしやがってっ!!」


 父親は悪態をつくと杖をロウに向かって投げつけた。杖はロウの肩にぶつかって鈍い音を立てて床に虚しく転がった。ロウの体がよろめく。力が全身から抜けて行くようだった。




 父親のように鉱山の毒に冒される者は多かった。それでも以前は深刻な事態には陥る事が少なかったのは鉱山にこもり過ぎないように徹底した日程管理がされていたお蔭だ。毒を体が解毒出来るように十分な休養を挟む。そうすると余計な毒を溜め込む事もなく、毒への耐性も作られて行く。


 そうした労働者への配慮は領主が代わり、無くなった。鉱山の仕事が犯罪者の強制労働という名目に重きを置くようになったからだ。


 毒が人体にどのように作用するかは人によって様々だ。父親の場合は目を全盲にし、脳へダメージを与えた。加えて長年の無茶な飲酒と相まって深刻な状況に陥っている。


 王都に向かう事は出来なかった。決して母親を見捨てたわけではない。父親を見捨てる事が出来なかったのだ。


 どこかで圧倒的な力を持つ父親が死んでいてくれればと願った自分がいた。にも拘らず今目の前で確実に死に向かっている哀れな男をどうしてか見捨てられない。


 脳に障害を負った父親の世話は骨が折れた。始終気難しく扱いづらい。父親にとって良かったと言えるのは、母親とロウを忘れた事だった。妻を奪われた悲嘆も息子に暴行を加えていた事も覚えていない。


 憤りがないわけではなかった。ロウの中には怒りも哀しみも常に渦巻いていた。吐き出す場所を見つけ出せず領主への憎悪が一層深まっていった。


 世話の必要な病人を抱えての暮らしは大変だった。幸いロウの仕事は直ぐに見つかり、ララエの屋敷に来ていた庭師の弟子として働き始めた。


 週に2、3回ララエの屋敷を訪れ庭の手入れをした。庭師のアルトは高齢で若く体力もあるロウを大変可愛がった。庭師の仕事に興味のなかったロウにも惜しみない知識を与えてくれた。


 そんなアルトだったが、一つだけロウには理解出来ない事がある。

 アルトはララエが庭に姿を見せなくなった事を嘆いていた。美しい旋律を聴けない事を残念がっていた。


 庭だけではなかった。ララエは自室に閉じ籠って殆ど部屋から出ないと聞いていた。以前のようにロウの傍に来て、べったりくっついて来る事もない。


 庭の主が庭を楽しむ事をしなくなってもアルトは丁寧な仕事をした。四季折々に咲く美しい花はララエの部屋に飾られた。


 自分が育てた花がララエの目を楽しませるのかと思うと苦い思いが込み上げて来たが、ロウは真面目に仕事をこなした。


 懸命に働いても生活が良くなる事はなかった。こんな田舎では弱者は強者に逆らう術をしらない。確実に領主の圧制は強められ、領民達はそれに慣らされ抵抗する意思を削がれていった。町は活気を失くし、領主の私兵が町をうろつく。多少の酷い話は直ぐに人々の心から忘れ去られた。


 ロウの中には暗く燃える炎がある。単身で領主に向かっていったあの頃よりも更に昏く熱く勢いを増して鍛えられたロウの理性を少しずつ焼いていた。


 表面上は平静を保ちながらララエから離れたロウの暮らしは5年が経過していた。

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