ロウ4

 ロウは領主の娘の人形だった。感情を殺しただ息をしているだけ。笑いも泣きもせず喋りもしない人形だ。そんなロウの何が楽しいのかララエはロウを傍に置いた。


 領主の娘は醜かった。太った体は肉の塊に見えたし、小さな目と鼻は肉に埋まっていたが、口は大きく目立っていた。領主と同じ灰青色の瞳と老婆のような艶のない灰色の髪。いつも似合わないレースをふんだんに使った可愛らしいデザインのドレスを好んで着て大抵楽しそうに笑っている。


 ララエは何不自由無く暮らしている。美しい館に置かれているものはどれも一級品ばかりだ。幼いながら審美眼は確かで、ララエ自ら選んだものも多くあるという。ララエにとってロウはそうした物の一つなのだろう。


 この館で暮らす使用人はそう多くない。世話を焼くのが幼い子供だけだからか、侍女が4人と料理人と執事、雑用をこなす男を二人雇っている。その誰もがロウを運がいいと言った。殺される事もなく、ただ娘の傍に侍るだけ、こんな楽な仕事はないだろうと。


「ここは中々悪くいない職場だぞ」


 賄を机に並べながら料理人が言った。賄料理一つとってしてもロウには考えられないくらい豪華だ。それを手伝っている侍女達も次々に頷いた。


「そうよね、世話をするのは子供一人だし」

「その子供も好きなようにさせておけばご機嫌だしね」

「お嬢様少し頭が足らないのよね、そこが唯一可愛い処なんだけど」


 くすくすと侍女達が笑う。ララエは使用人達に好かれてはいなかった。当然だとロウは思う。あの男の娘が好かれるわけがない。侍女の一人は兄を鉱山の強制労働で亡くしたと語っていた。そんな境遇の人間は珍しくなかった。


「おい、あまりお嬢様の事は言うなよ。ご主人に聞かれたら大変だぞ」


 領主が娘を溺愛している噂は本当だった。溺愛するあまり醜い我子を心配して世間から隠しているとロウに教えてくれたのは料理人だ。


「大丈夫よ。当分は都に行って戻って来ないもの。ご主人様さえいなければここは天国よ」

「あら?でもたまに私は口がむず痒くなるわ。するすると嘘が口から出るんですもの」


 侍女たちは事あるごとにララエを褒め称える。ララエの容姿を褒め、行動を褒め、ララエは素晴らしい方だと笑顔で言う。その笑顔に嘲りを含ませている事を鈍いララエだけが気が付かない。美しい物に囲まれながら、自身が一番醜い事を知らない。


「よく言う。罪悪感なんか欠片もないくせに!」

「いいじゃないの、それでお嬢様は幸せで、私達も幸せよ」


 侍女たちのやり方は褒められたものではなかったが、実際に上手いやり方だ。ララエの機嫌一つで仕事のやり易さが変わると思えばこんなに楽な事はない。元より忠誠心の欠片もない。割りが良くなければ悪辣な領主の使用人など出来ないのが本音だった。


 ララエは人を疑う事を知らない。ここはララエのための隔絶された箱庭で、ララエはこの屋敷からほとんど出る事はなく、世間を知らずに育っている。侍女たちの言葉を鵜呑みにして酷い癇癪も起こす事はないし、この状況が普通でない事を知らない。


 皆で食事をしていると使用人の男が一人ロウを呼びに来た。


「ロウ、お嬢様がお呼びだ」

「ええ~っ!」


 不満の声を挙げたのは侍女達だった。


「またなの?折角の癒しの時間なのに!」

「何あんたが怒っているのよ?うんざりしているのはロウでしょうに」


 そう言いながらロウに向かってにっこり笑いかける。


「ほら、早く行けよ。お嬢様の機嫌が悪くなるぞ」


 料理人の言葉にロウは重い腰を上げた。ロウの隣に座っていた侍女がロウの手を握ってお菓子を渡し、耳元で囁く。


「これ、後で食べて」


 別の侍女は励ますようにロウの背中をさすった。


 ロウはあっという間に使用人達、特に侍女達に気に入られて可愛がられている。彼女達は隙を見つけてはロウに話しかけたり菓子を渡したり、頭を撫でたりしたがる。ロウの母親の事情を知ると抱きしめたがり、やたらと胸を押し付けてきたりする。そんな反応は今に始まった事ではなかった。


 ロウの母親譲りの美貌は何処にいても女達の関心を誘った。そのお蔭でなんとか今まで生きてこられた部分もあった。




 ララエは庭にいた。庭師のアルトが作業をするのを熱心に見ている。時折アルトに話しかけてはアルトの手を止めさせていた。


 アルトはそれを嫌な素振りも見せずに相手をしている。ロウが知る中でアルトは一番まともにララエの相手をしていた。ロウはアルトと話した事はない。大抵ロウの傍にはララエがいるので、ロウが口を開かないからだ。


 アルトは皺だらけの顔に穏やかな目をした老人だった。ロウはアルトが少し苦手だ。あの穏やかな目でみられるといつも落ち着かない気持ちになる。


 アルトに話しかけられてララエが大きく頷いて、置いていた楽器の箱からリンガルを取り出した。

 リンガルは6つの弦から成る楽器で手と弓を使って音を鳴らす。楽器自体がとても高価で貴族の間で流行しているのだが、弾きこなすのがとても難しい。音色は引き方によって様々に変化をみせる。多彩な音色が魅力だが、下手な弾き手ではこの味を出す事は出来ない。


 ララエが弦を構えた。奔流のように音が溢れ出す。

 ここは美しい物が溢れている。ロウにはそれが腹立たしい。


 一曲演奏を終えてララエがドレスをつまんでお辞儀をした。顔を上げた時に立っているロウに気が付いてララエは嬉しそうに笑った。


「ロウ!」


 今日は黄色の胸の位置で切り替えのあるふんわりと膨らんだドレスを着ているから、いつにも増してシルエットが丸い。それを侍女達がララエに向かって絶賛していた。花のように愛らしいと言いながら笑いを堪えていた。


 ララエを前にしてロウはただ立っているだけだ。名前を呼ばれても返事をする事もない。ララエはロウの周りを一周りして満足そうに頷いた。


「きょうはね、みずうみに行くの。ミズホのはながさいたのよ。ロウみたいでとってもきれいなの」


 湖はララエの散歩コースだ。この近隣一帯は領主の私有地で立ち入りを制限されており、湖もララエ専用と化していた。人がみだりに来ない湖は美しく神秘的でララエの一番のお気に入りだった。


 ロウに拒否権はない。人形に意志はいらない。


 ララエはロウと先程ロウを呼びに来た男を連れて歩く。その後方から護衛が一人ついてきている。途中ララエが疲れて動けないと言えば男がララエを背負って進んだ。それ程長い道のりではない。10分程度歩いて湖に到着した。


 水面が光を反射してキラキラと輝いている。湖のほとりには小さな黄金色のミズホの花が一面に咲いていた。

 

 ララエは歓声を上げながら一目散に駆け出して、ドレスに足を取られて転んだ。ロウ達が呆気にとられている間に自ら上半身を起こして笑い出し、ドレスが汚れるのを構いもせずごろごろと草の上を転がった。


 ララエの奇行に慣れている男は平気な顔で持ってきた荷物を広げだす。ちょっとした軽食と楽器にスケッチブック。それを用意すると男はそのまま寝転び出した。


「好きなだけ遊ばせておけばいいから。ただ湖にはあまり近づけさせるなよ。落ちて風邪でも引かれたら厄介だからな」


 そう言って男は寝入ってしまった。


「ロウ!こっちへきて!」


 湖を覘き込みながらララエがロウを手招く。

 仕方なくララエの傍に行くと湖の冷たい水を顔にかけられた。ロウの表情は少しも動かない。迷惑そうでもなければ楽しそうでもない、無表情だった。ララエはそんなロウでも一向に構わないようで楽しそうに笑った。


 ひとしきり騒いで満足したララエはロウを花の中に横たえさせた。色んな角度からロウの寝そべっている姿を確認すると、一番気に入った場所で用意してあったスケッチブックを持って絵を描き始めた。


 一言も喋らず、視線はロウとスケッチブックを往復するだけ。紙の上を滑る鉛筆の音が微かに聞こえる。


 ララエが特に好きなもの。それは花と絵と音楽だった。

 ララエの一日の大半がこの三つで占められる。特に絵に没頭し出すと周りが見えなくなって何時間でも絵筆を握っている。最近のお気に入りのモチーフはロウなので、ララエにずっと付き合わされる羽目になる。


 いつもそうしているように、ララエに見られている事をロウは意識から締め出した。ララエといる時は何も感じず考えず感情を閉ざした。そうしなければ人形にはなれなかった。


 これが、こんな事が、運がいいというのだろうか。


 ここにはロウを虐げる父親はいない。常に空腹を抱えながら必死に働く必要もない。寒さに凍えるような夜も、物乞いのように他人が恵んでくれるのを待つ必要もない。ロウには当たり前の、酷い現実がここには一つもない。


 ここにあるのは、どこもかしこも美しく綺麗な非現実だ。ロウにはないものばかり。花と絵と音楽が好きだと言って一日戯れていられる子供。そんな馬鹿げた子供の現実なのだ。


 侍女達はララエを頭が弱いと侮るが知識を与えようとしないのは領主の方だった。簡単な読み書き以外をララエは教育されていない。


 ララエの絵や音楽は独学だった。教師をつけるのを嫌がった領主はララエの才能を世間に知らせようとはしていない。極悪非道な男が現実の汚濁に触れる事のないように子供を守っている。


 領主の偏愛を理解出来る者はいないだろう。無垢とは程遠い男は無垢なままのララエを愛しているのだ。


 人の心に憎しみを植え付けているような男の娘が何も知らず、のうのうと暮らしている。

 

 ロウに神のような力があったなら、こんな現実は真っ先に踏みにじってやりたい。領主親子を殺してやりたい。抱えきれない程の怒りと憎悪は子供のロウには重すぎて、心を閉ざさなければ狂ってしまいそうだった。


 ただぼんやりと空を見上げる。この穏やかな風景が遠い。いつの間にか鉛筆の音に代わってリンガルの美しい旋律がロウの耳を素通りして行く。


 どんなに美しい景色も旋律も心を閉ざしていれば、ララエの髪のような灰色に塗り潰されて行くだけだった。

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