ロウ3

 この地方の中心街は東にある。北側には鉱山が、西側は主に領民達の生活区になっている。そして南側には農地と透明度の高い美しい湖があった。


 その湖のほとりに領主の別邸が建てられている。本邸は中心街にあり、領主は王都と本邸を行き来しているが、定期的にこの別邸にやって来る。比較的警護が手薄な別邸は子供が忍び込むには都合が良かった。


 庭師が丹精込めて作ったのだろう庭にロウは身を潜める。


 色とりどりの美しい花が咲き乱れている。花の甘い匂い。瑞々しい木々。太陽の光で暖められたベンチ。穏やかに流れる時間はここにだけ春を閉じ込めているようだ。殺伐とした彼の日常とかけ離れ過ぎていてしばらく呆然としていた。


 この館には、領主の娘が暮らしている。あまり人々の前に姿を現す事のない娘で、あの冷酷な男が溺愛しているらしい。一方で人目に晒せない程醜いために隠されているという噂もある。どちらにしろ、領主が娘に会いに通っているのは確かだった。


 この庭に迷い込んだのは偶然だ。油断なく辺りを窺う。今日領主がここにいるのは分かっている。どうやって接触するのかが問題だった。屋敷の中までは把握出来ていないので忍び込むのは危険な気がした。次の行動を決めかねていると子供の声が聞こえた。


「こっちよ、とうさま!いそいでっ」


 子供特有の高くて少し舌足らずな声だった。ロウが失った無邪気さに溢れ楽しそうに弾んでいた。


 ロウの小さな心臓が跳ねた。身を小さくして垣根の中から声のした方を伺う。


「きゃっ」


 短い悲鳴が上がって鼓動が暴れ狂う。鼓動を諫めるように心臓の上を強く握った。自分の荒い呼吸と激しく脈打つ心臓を強く感じ過ぎて眩暈がする。


(落ち着け、落ち着くんだっ!)


 肩から掛けていた鞄から短剣を取り出して強く握りしめた。微かに震えていた手が止まる。出来るだけ慎重に向こうを覘いた。


 幼い子供を抱き上げている男がいる。仕立てのいい背広を着た背の高い細身の男だ。貴族的な冷たい印象の顔、やや細い切れ長の目は灰青色で、丁寧に撫でつけられた髪は黒だ。


 幼子に話かける声は思いのほか優しく響いた。


「そんなに急ぐ必要はないだろう?花は逃げはしない」

「だって、とうさまにいちばんにみてほしいんだもの。あのね、ララエがうえたのよ。アルトがララエのおはながいちばんきれいだって!」

「どうやら私のお姫様は優秀な庭師でもあるらしい。私は鼻が高いよ」


 褒められて子供は嬉しそうに笑った。


 会話の内容はロウの頭に入ってこなかった。ただひたすら男を凝視した。何度か遠目で確認した事がある領主本人に間違いない。それを認識した途端に不安も恐れも全てが消えた。ロウを動かしたのは明確な殺意だった。


 短剣を鞘から抜いて垣根から飛び出した。領主のみを見据えて全力で飛び出す。


 一突きでいい。この優美な短剣は見た目に反して名刀と呼ばれてもいい程に切れ味は本物だ。心臓を、それが出来なければ腹部を一突き出来れば致命傷になる。一撃に全力をかける。


 体重をかけて領主に突進しようとした次の瞬間、ロウの体は重い衝撃を受けた。痛みに息がつまる。視界は地面をなめて自分が地に伏している事を悟る。腕をねじり挙げられて背中を押さえつけられる。握っていた短剣が取り上げられた。


 自分の失敗をロウは信じられなかった。


(目の前に居るのにっ!直ぐ傍にいるのに!!)


 領主は子供を抱いたままロウを見下ろしていた。ロウを押さえつけているのは護衛で先程までロウの視界では確認出来なかった男だ。


「くっ…!離っ、せっ!!」

 痛みを押して暴れるが拘束は緩む事はなく、さらに力を加えられて頭を地面に押さえつけられる。口の中に土が入り込む。


「暴れるな、腕をへし折るぞ」


 宣言通り護衛は腕に力を込めた。子供の細い腕を折るのは易いだろう。それこそ庭の木の枝のように簡単に折れる。


「待て」


 意外な事にそれを止めたのは領主だった。

 ロウが精一杯見上げた先には、冷たく光る目がロウを見下ろしていた。娘に向けるのとは全く違う残忍な光を放つ目だ。


 領主は憎しみを込めたロウの視線を無感動に受け止めて、ロウがそこにいないかのように腕の中の子供に話かけた。


「ララエ、花は後で見に行こう。先に美味しいお菓子を食べてから」

「………」


 娘は何も返事をしない。男は困ったように眉を下げた


「ララエ?」


 娘の視線は捕らえられた哀れな子供に向いている。ロウの視線と意識はただただ憎い領主に向いていてララエには気付いていなかった。


「ねぇ、とうさま。わたし、アレがほしい」


 その場にそぐわない無邪気で幼い声が響いた。男の腕の中に収まるピンクのレースのドレスを着た子供の目はキラキラと輝いてロウを見ている。


 あまりに場違いな様子はロウには異様な物に映った。


「ねぇ、とうさま。いいでしょ?アレがいい」


 そう言って指差すのはロウだった。ロウは眉根を寄せて娘を睨み付けた。領主は娘とロウを交互に見て溜息をついた。


「おねがい、とうさまっ。おかしはいらないから、アレがいい!」


 子供は頷いてくれない男に焦れたのか、声を大きくする。目には涙が浮んだ。領主は宥めるように娘の背を撫でた。


「ララエ、私がお前の願いを叶えなかった事があるか?」

「ううん、ない。とうさま、大好き!」


 父親の首を抱きしめて満足そうに笑うと父親の頬にキスをした。


「じゃ、大好きなとうさまのためにお茶の準備をしておいてくれるか?」

「うん」


 腕のから降ろされて娘は喜んで屋敷の方へと駆けて行った。


 あまりに予想していない展開にロウの思考は追いついていなかった。この親子が何の話をしているのかさっぱり理解出来ない、領主の娘は一体何なのか。失敗したら殺される、その覚悟しかしていない。


 娘を見送ってロウに向き直った男は本来の酷薄な表情を浮かべていた。


「珍しい客が来たものだ」


 未だに拘束されているロウは悔し気に男を睨み付けるしかない。


「その顔、ジュリアーナの息子か」


 母の名前を出されてロウが気色ばむ。王侯貴族だと言われても違和感のない程に美しかったロウの母親は数年前に領主に連れ去られてから誰もその行方を知らない。母を奪った男が平気で母の名前を口にするおぞましさに臓腑が焼けるような嫌悪を感じる。


「母さんの名をお前が口にするな!母さんをどこへやったんだ!!?」

「まるで私が奪ったよう言い方だな。アレは私の下で働いている。お前の母親は大層美しい女だから大いに私の役に立っているぞ。アレの相手をした者達はいつも満足してくれる」


 領主の厭らしい笑いはロウの思考を真っ赤に染める。


 死に物狂いに無茶苦茶に暴れて何とか拘束を抜け出そうとしたが、逆に殴られて体が吹っ飛んだ。吹き飛んだ先には薔薇が植えられていて、小さな棘がロウの肌をいくつも切り裂いた。顎の下を殴られて酷い眩暈がする。


 動けないでいると護衛に引きずり出され地面に投げられる。領主の手がロウの前髪と掴み顔を上げさせた。


 男の顔には隠しきれない嗜虐の喜びが浮かんでいる。


「折角の顔が台無しではないか。ララエが悲しむ」

「ふ…ざけ、るなっ」

「あの子は私と同じで美しいものに目がない。困ったことに私のお姫様はお人形を所望だ」

「殺して、やるっ………!!」


 意志だけで人を殺せるなら目の前の男は瞬時に息の根を止めただろう。子供らしからぬ殺気を纏うロウを男は冷たく嘲笑った。


「反抗的な人形はいらぬ。お前の不手際はジュリアーナに責任を取らせよう」

「!!?」


 固まって動けなくなったロウに男は噛んで含めるように言い聞かす。


「親が子供の責任を取るのは当然ではないか?なに、アレは慣れているさお前の父親でな」

「何、の事だ…っ」


 歯が砕けるのでないかと思う程顎に力が入る。領主は嘘をついている。この男が本当の事を言う訳がない。


 余程ロウをいたぶるのが楽しいのだろう、領主は意地悪く口角を上げる。


「知らないのか?私は何も無償でお前の母親を働かせているわけではない。お前の父親が毎晩酒と女と賭博に費やしている金が何処から出ていると思っている?」

「う、嘘だっ!!!」


 頭がハンマーで殴られたように痛む。眩暈と吐き気も込み上げてきて視界がぶれた。父親はそんな事は一言も言ってない。必死で母の行方を捜して、その喪失に耐えられず狂っていったのだ。そうでなければ。


 ロウの動揺に領主は喜々として更に拍車をかける。


「アレは健気な女だ。喜んでお前の代わりに死んでくれる」

「やめろっ!!母さんに手を出すなっ!!!」

「ならば、自分がどうすればいいのかわかるな?」


 人を弄ぶ事に長けている男に子供などひとたまりもない。


 ロウは息を飲み込んだ。目の前には殺しても殺し足りない憎い男が悪魔の如く笑っている。この男を殺す事さえ出来ればロウは自分がどうなってもいいと、死んでもいいと思っていた。


 固く引き結んだ唇に血が滲んだ。この泥と血の味をロウは一生忘れないだろう。力なく目を閉じて自分の無力を呪った。


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