樹2
樹にとって日本での生活は通過点に過ぎなかった。そこに樹の希望や期待は一切含まれていない。学校を選ぶ際も便利さや個人の希望が考慮される環境を選んだに過ぎず、そのためエスカレータ―式に上がる高校の入学式も樹にとっては退屈な行事の一環だった。
講堂前の桜の並木道は新入生であふれていた。真新しい制服と良く晴れた空と丁度満開になった桜の花びらが時折あたりを舞う様はとても晴れがましく、新入生たちの顔を輝かせていた。
樹は清十郎と受付の列に並んでいた。樹は他人よりも背が高いので見るとはなしに在校生がテンポよく受付をこなして行くのを見ていた。
樹達が並んでいる列よりも3列向こうの受付でざわめきが起きた。声までは樹まで届かなかったが、在校生が受付にきた新入生を前にして何やら驚いたように話しかけている。左右の受付係までその輪に加わってしまって、周りの新入生も何事かとざわつき出した。
樹からはその新入生の姿は人込みに隠れて見えなかったが、受付を済ませ振り返ったその人に無意識なのだろう周りが距離を取った。
彼女は平凡な日本人女性に見えた。目をやや伏せて姿勢よく立ち、歩き始めた時に他の人との違いは直ぐに見て取れた。右手に杖を持ちゆっくりと歩き出す。ざわつく周りとは対照的に彼女の纏う空気はとても静かで、それは酷く印象的だった。
「あれ、車椅子の君だ」
清十郎が驚きの声を上げた。樹が清十郎に目をやれば、大きな目を見開いて彼女が過ぎて行くのを目で追っている。そうして感嘆したように零した。
「すごっ、歩けるようになったんだ」
「知ってるの?」
「結構有名………って、そうか樹は途中編入だから知らないか。俺達よりも2つ上の先輩で初等部からの内部生だよ。小さい時に交通事故にあったらしくてずっと車椅子だった。車椅子の生徒は彼女一人だし、なんて言うか彼女の雰囲気が独特だから有名だった。中等部を卒業した後、高等部で見かけなかったからてっきり外部に行ったんだと。入学式に来てるって事は彼女、新入生って事?」
彼女の胸には新入生に配られるカーネーションの花があった。
「そうなんじゃないか?」
「じゃ、この二年間は足の治療のためだったわけだ」
すごいすごいと清十郎が連発するので、それだけ彼女が歩行出来るようになるのは困難な事だったのだろうと思うが、いささか清十郎の反応が大げさに思える。
「セイ、やけにくわしいな」
「普通だよ。でもまあ、彼女を気にする人間は割と多かった。言ったろう?彼女、独特な雰囲気だって。足の事があるからなのか彼女と親しい人はいなかったんだけど、孤独とは少し違う、孤高って感じで、皆遠巻きに見てたと思う」
足が不自由であるのを悲観して卑屈になるわけでもそれに甘えるわけでもなく、彼女は人に頼らずに静かに学院生活を送っていた。彼女が醸しだす静謐は子供には近寄り難く、彼女を孤独に、特別なものに見せていた。彼女に対する意見は様々あるだろうが、少なくとも清十郎は好意的だった。
「名前、なんていうの?」
「椎名千種だよ。何組なんだろう?同じクラスなら話す機会もあるんだけど」
どこか期待するように清十郎が話していると後ろから声を掛けられる。樹の後ろに並んでいた女子生徒だ。樹を見て顔を少し赤くさせ上目づかいで恥ずかしそうに話す。
「あの、受付呼ばれてるよ」
いつの間にか受付が樹達の前まで終わっている。受付係が少し不機嫌そうに樹達を呼んでいた。
「どうもありがとう」
そう言って樹が少し微笑むだけで女子生徒は真っ赤になった。清十郎が呆れた眼差しを送ってくるので肩を竦める。それっきり椎名千種の事は頭から消えていた。
日頃の行いがいいのか清十郎が千種と話す機会は直ぐに訪れた。彼女は樹達と同じクラスだった。ただ、清十郎が期待したように話が出来たかと言うと、そうは上手く行かなかった。
教室の入り口でぶつかった千種は清十郎を見るなり固まって心臓が苦しいとばかりに胸を抑え、顔色を青くさせた。樹が咄嗟に千種を抱え上げたのは千種とあまり背丈が変わらない清十郎では無理があるだろうと思ったからだ。体格に恵まれた樹には千種の重さは左程苦ではない。
「ちょっと我慢して。保健室に連れて行くよ」
前半を千種に、後半を面喰らっている清十郎に向かって言った。歩き出そうとした時腕の中の千種が何事かを呟いてもがき苦しみだした。あまりに激しい様子に樹達が息を飲む。千種が樹の腕から転がり落ちるように逃れてその場に蹲った。樹が手を伸ばしその背に触れる。
「………やめてっ、触らない…でっ」
悲痛な声だった。その声に阻まれて教師がやって来るまで樹は見ている事しか出来なかった。
最初の日から樹は千種を気にするようになった。千種の反応があまりに普通ではなかったからだ。
千種はクラスの中で異端児になっていた。足が不自由である事、2歳年上である事は些細な理由でしかなく、千種のクラスに関わるまいとする頑なさが周囲を遠ざけていた。清十郎は彼女を孤高と評したが、樹の目には違って見えた。
千種の姿勢は敬虔なカトリック教徒、自己を捨て神のみを唯一にして生きる修道女を思わせた。
何かが千種の中で存在するあらゆるものを押さえつけ、静かに時が過ぎるのをただ待っているように思える。
それが何かを樹は知りたい。千種は無関心を装いながら周りをとても恐れていた。とりわけ樹を。その樹に対する過剰とも言える反応は、身に覚えのない樹を困惑させて強い興味を引く結果になった。
自然と千種を遠巻きにするようになったクラスメイト達と違って、千種の相手をするのはクラスの副担任の藤島の役目になりつつあった。彼は大学を卒業したばかりで教師というより学生に近い感覚をもっていたのが幸いしたのか、千種と打ち解ける事が出来た唯一の人物だった。
クラスで浮いている千種を心配して気遣い、時にはフォローに回る。千種だけを特別扱いしているように見えないように他の生徒達にもまんべんなく接して、能力的にも人格的にも問題のない人物だった。それでも経験の無さは感情的な部分に顕れて来るものだ。
中学を卒業したばかりの15、6歳なら22歳の男から見れば幼く子供にしか見えないだろう。だが18歳ならどうだろう。10代の成長は著しく、少女を急に女性に変える。その鮮やかさは人を魅了するには十分だった。
千種は藤島の前では、少し和らいだ表情を見せるようになった。ぎこちないながらも微笑みさえ浮かべる。それを藤島がどのように見ているか考えも及ばないだろう。クラスメイト達への警戒と違って千種は呆れる程無防備で男という生き物を知らなかった。
悲痛な声で樹が触れるのを拒絶しても、彼にはそれを許す。藤島の千種を見る目に、触れる手に、少しずつ色が含まれて行くのを懸念しながら樹は見ているしか出来なかった。
時折千種が樹を気にしているのを知っている。樹は千種に関心がある事を隠す気が無いのだから余程鈍い相手でない限り気が付くだろうが、千種は精一杯気が付いていない振りをしている。そうやって見つめていると極力感情を表そうとしない千種でも小さな変化があるのがわかるようになって来る。
彼女は天気の良くない日が苦手のようだ。少し元気がない。雨が降ると憂鬱になる。右足が痛み出すからだ。
彼女は高校に入学してから車椅子を使用した事がなかった。どんな時でも誰も頼らず一人で歩いている。頑固にそれを貫くためなのか痛みを顔に出す事すらしないように頑張っている。歩く時はいつも一定の速度を保ち足に余計な負担をかけないためにバランスに凄く気をつけている。階段は少し苦手なようで昇るのを見た事はあるが降りる姿はないので、一般生徒には開放されていないエレベータを使用しているのだろう。
自分に出来る事出来ない事を上手く分けて、同情を引かず容易に他人の手を必要としないようにしていた。
それが彼女の矜恃なのだとうろ樹は理解しながらも同時にもどかしい気持ちにもなって、ますます目が離せなくなって行ったのだ。
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