樹3

 その日も雨が降っていた。梅雨の時期に入って天気の悪い日が多い。


 朝見た千種の顔はいつものように凪いでいたが、その瞳には憂鬱が見て取れた。顔色も少し優れないようだった。時間が経つにつれ千種の憂鬱は酷くなっていったが、表面上は不調を気取らせないように振る舞っている。

 樹は彼女の強がりがいつまで続くのか観察していた。


 今日最後の講義は一年生の棟から遠い教室だ。案の定すぐに千種が教室を出ると樹は彼女の後を追った。


 いつもよりも歩くスピードが遅く、杖と両足のバランスが崩れて右足を引きずっている。立ち止まりまた歩き出すのを何度か繰り返して、限界を感じたのだろう千種が空き教室に入って行った。


 千種の他人に頼らず一人で頑張ろうとする姿は感嘆に値するのかもしれないが、樹には強情を張っているように見える。千種の頑なさは樹を苛立たせ、それを崩してやりたいと思わせる。


 扉を開けたまま千種は入り口から見えにくい端側の椅子に座っていた。痛む足を撫で格段に顔色を悪くさせ、薄らと汗を掻き、目が朦朧としている。


 痛ましさに早く助けに入らなかった事を後悔したが、痛みに気を取られてとても無防備な千種に樹の一部が確かに喜んでいた。


「椎名」


 名を呼ぶと千種の身体が強張る。樹を見上げて小さく震える身体。無意識に駄目だと声を上げそうになった。


 千種の怯えは樹の中の何かを引きずり出そうとする。それは好ましくないものだ

 と樹は本能的に知っているので困った顔で千種と視線を合わせた。


「足が痛むの?抱いて行こうか?その方が早い」

「いいの!………ほっておいて」


 それは樹にはもう無理だった。千種を放り出せる段階はとっくに過ぎていた。


「椎名」


 怖がらせないように出来るだけ優しく名前を呼ぶ。それこそ、こんな風に誰の名も呼んだことがないのに、樹の思いも知らず千種は視線を逸らして俯いた。


「大丈夫だから」

「そんな酷い顔色で言われても、説得力がないよ。立つこともままならないんでしょう?椎名が動かないなら僕もここから動かない」


 樹には千種をここに一人置いて行く気も、誰かにこの状況を譲る気も微塵もなかった。

 樹も強情なら千種も相当に強情だった。樹の手をあくまでも跳ね退ける。


「じゃ、藤島先生を呼んできて」


 その言葉を聞いた瞬間に生まれたのは怒りに近い感情だった。今まで樹には味わった事のない感情、嫉妬だ。


 同時に、胸を焦がす炎が生まれる。暗く熱いその炎は瞬く間に樹の全身を犯し、自分の気持ちを自覚した。


 笑顔一つ与えてはくれない相手。樹の持てるもの全てをもってしても彼女には通用しない。樹に怯え恐れしか抱かない、この女が欲しいのだ。


 自分には自虐の趣味があったのかと内心で嘲笑う。樹に心を開く姿が想像も出来ない相手にこれ程に強い思い抱く自分が滑稽だった。


 樹には相手に追いすがる者の気持ちがわからなかった。今ならわかる気がした。恋は人を愚かにするのだ。ようやくわかった真実に諦観の溜息しか出ない。


「椎名はどうして僕に怯えるの?」


 彼女は答えない。固く口を閉じている。千種は樹に理不尽を強いているのだ。身に覚えのないその理由を知りたいと今こそ強く思う。


「僕は君を傷つけたりしない。………君の力になりたいだけなんだ」

「………」


 千種は頑なに顔を背け樹から自分を守るように両腕で自分自身を抱きしめた。

 追い込んでは駄目なのだ。これでは益々千種を遠ざけてしまう。信頼を勝ち取らなければならない。


 俯いた顔を上げさせてその眼に自分を写したい衝動に駆られたが、樹は我慢した。引き際を間違えてはいけない。


「先生を呼んでくるよ」


 そう言えば、憎らしい事に千種が安堵の息をつく。樹に関しては感情を隠すのが下手過ぎる。胸に生まれる凶暴な感情を誤魔化すために苦笑を滲ませて彼女の傍を離れた。




 講義がすでに始まっているので廊下は閑散としていた。樹の前からやって来るのはよりによって藤島だった。


「斎賀、どうしたのだ?授業はもう始まっているぞ」


 まだ若い教師には生徒を頭から咎めようとする姿勢はない。何かあったのではないかと案ずる心遣いがあった。藤島は教室を出る時にも千種を気にして声をかけていた。それが今の樹には腹立たしい。千種を他人の手に委ねなければならない不満は大きく、簡単に千種に頼られる立場が妬ましいのだ。


「………椎名がそこの教室でへばっていて、脚がかなり痛む様です」


 千種の名を出した途端に教師の顔ではなく男の顔になった。千種への過剰な心配を浮かべて焦っている。


「そうか、斎賀、ありがとう。後は俺が対処するからお前は授業に行きなさい」


 急いで樹の傍を通り過ぎようとする藤島の腕を掴んだ。驚いて樹を振りかえる男に微笑みかける。


「お礼を貴方に言われる筋合いはありませんよ。僕も彼女のクラスメイトだ。当然の事でしょう?」


 樹の威圧的な雰囲気に呑まれてか藤島は押し黙った。樹の手に力がこもる。


「先生?貴方の椎名への過剰な態度が生徒達に何と思われているかご存じですか?」

「俺は」


 不意打ちに男の顔に動揺が走る。あまりに素直な反応だった。樹は笑みを浮べながら剣呑な眼差しを向けた。


「過去、教え子と結婚した教師はいるでしょう。でも、在学中に手を出せばどうなるか貴方もおわかりでしょう?」


 ここは歴史と格式を重んじる学院だ。子供を預ける親も裕福で社会的地位が高い。この学院に教師として採用されるのは名誉と言って良いが、不祥事を起こせば教職には二度と就けないだろう。下手をすれば社会的に抹消されかねない。


 藤島の顔が強張る。激しい葛藤が目に見える。

 樹が笑みを深める。美しい顔に凄みがました。


「椎名もいい加減クラスに打ち解けないと。貴方の干渉は椎名のためにもクラスメイトのためにもならない」

「そんな事は」

「子供には子供のやり方やルールがある。教師はそれを見守るべきでは?」


 樹をきつく睨み付ける目を平然と受け止めて美しく嗤う様は子供と侮るには壮絶で、息を飲む。樹と対峙するには藤島の教師としての経験が足りなかった。そして男として向き合うには覚悟が足りない。

 先に視線を外したのは藤島だった。


「………手を放してくれ」


「ああ、失礼」


 樹に触れられた場所を手で握る。これは警告であり脅迫なのだと捕まれた腕の強さで十分伝わっている。こんな子供にしてやられたのだ。


 ―――これが、子供だって?


 こちらを見透かす薄青い目は得体が知れない。


「兎に角、斎賀は授業に行きなさい」


 なんとか教師の威厳を保って言った。

 樹は口角をあげて瞬き一つで雰囲気を和らげた。


「そうですね。先生、椎名の事、くれぐれも宜しくお願いします」

「………ああ」


 どこか苦みを含んだ頷きだった。




 それからの樹の態度は積極的だった。何かと千種に関わろうとして千種に拒絶される。周りは困惑気味に傍観に徹する者が多かったが、樹の好意を寄せる一部の女子からは千種に対する不満が上がっていた。


「お前、なにかしたの?」


 樹の行動に一番驚いて半信半疑である清十郎が、千種と副担任のやり取りをじっと見ている樹に問い掛けた。


「うん?」


 入り口で話をしている二人の声は教室の一番後ろの席にいる樹達のところまで届かない。


 樹の視線は二人から離れず、気のない返事に清十郎があからさまな溜め息を吐く。


 藤島の手が千種の薄い肩に触れそうになったが、何かに気付いたように不自然に手を下した。含み笑いが清十郎の耳に届く。

 樹はとても機嫌が良さそうだ。


「お前………」


 それ以上の言葉が続かない。友人をとても遠くに感じる。変わって行く樹に嫌な気分だった。変わったのは樹だけではない。藤島の千種の接し方も変わって来ていた。以前はとても親身になっていた。それが随分と人の目を気にして遠慮がちになった。彼の気持ちは見る目のあるものにはわかるので、これが本来の教師と生徒の距離だと言われればそうなのだが。


 樹が千種を構うようになった分、藤島の時よりも女子の反感は大きい。そろそろ千種の身に何か起こっても不思議ではない緊迫感があった。


「少し自重したら?」


 千種が席に着いたのを見届けてから樹は清十郎に向き直る。清十郎は眉間に皺を寄せ難しい顔をしている。


「どう見ても嫌がっているぞ。いい加減諦めろよ。」


 誰が見ても千種から樹への好意は一ミリも感じられない。これがただの恋ならとっくに心を折られるような相手の反応だ。清十郎なら思う事さえ憚られるような状況なのに、樹は鼻で嗤う。


「馬鹿だね、セイ。椎名は僕が何もしてない時から嫌がっているし怯えているじゃないか。僕のせいというより彼女自身の問題なんだと思う。僕がそれに付き合う道理もないだろう?彼女はとても頑固みたいだし、こっちから働き掛けない限り変わらない」

「やり方があるだろ?」

「穏便に?気を使っていたらいつまで経っても関わる事すら出来ないだろう。それこそ僕が彼女の前から消えるしかない。彼女に必要なのは荒療治だよ」

「それで、椎名が女子から嫌がらせされるのも治療の内?お前なら自分の言動が周囲にどんな影響を与えるのかくらいわかるだろ」


 痛いところをつかれて樹は押し黙った。いつも樹に付き纏う弊害だ。樹と少しでも仲良くしたという理由でいじめが始まるのは今までに度々起こった事だった。

 樹はいつもうんざりしていたし、樹が関われば火に油を注ぐようなもので双方どちらにも無関心を貫いていた。だが、千種に同じ態度がとれる筈がない。

 

「………椎名を傷つけさせる気はない」

「どうだか。四六時中見張る?」


 無理だろうと言外に言うが、樹は納得しない。


「必要なら」


 樹の目が怖いくらい真剣だった。こんな風に余裕のない樹は見たことが無い。気まぐれでも遊びでもない、樹の本気の執着を感じて、清十郎は背筋が冷えるのを感じていた。


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