樹1

「ほら、千種も協力して。僕の首に腕をまわして」


 そう強請ると腕の中の少女はより一層怯えた。樹よりも小さな身体はこの腕の中に囚われたまま、絡め取られた瞳は哀れな程彼女―――千種の心情を吐露していた。


 出会った当初から彼女の中には恐れがある。それは頑固に今も居座り続けて、それが樹の苛立ちの原因だった。


 優しくしても甘やかしても駄目。人が羨む容貌も家柄や能力も千種相手では意味をなさなかった。


 いつの間にか生まれた焦燥や渇望が樹を酷く苦しめていた。千種の中の恐怖以外の何かを必死に探して、いつしか何処まで千種が耐えられるのか観察するようになった。


 千種は何もわかっていない。樹の中の獣を飼い馴らすのも解き放つもの千種次第なのだと言うことに。


 獣に怯えた獲物はのろのろと腕を伸ばす。本能なのか、千種は最後の一線をわきまえている。それでも、耐えかねたように千種が固く目を閉じた。


 樹は千種を哀れに思う。千種が樹から逃れられないのは千種のせいだ。樹を怖がるくせにそこに嫌悪がない。だから樹がつけ上がるのだ。


 樹はその秀麗な顔に苦笑を滲ませながら腕の中の彼女を大切に抱え直した。



 樹が千種を連れて来たのは樹に割り振られた専用の休憩室だった。この学院は実力と財力があればかなりの面で融通が聞く。すでに親の会社の仕事に携わっていて、ただの学生に留まらない樹には大変重宝していた。部屋には娯楽類は一切なく、休憩室というより仕事部屋だった。


 千種をソファに横になって寝てしまった。悪かった顔色も大分よくなっている。改めてみると千種は小柄だ。筋力も体力もないから華奢で頼りない。樹が横になると足が出てしまうソファも千種には丁度いい大きさで、すっぽりと収まる様は子供のようだった。肩まである黒い髪は千種の性質のように細く真っ直ぐだ。閉じられた黒い瞳は驚くほど濁りがないのを樹は知っている。表情の乏しい千種だが、その瞳が千種の感情を語ってくれる。


 樹は脱いだ上着を千種の上半身にかけてやる。下半身にはタオルをかけて、ビニール袋に入れたホットタオルを足の上に置いた。樹はそのまま跪きタオルの上から千種の足を時折圧迫を加えながら軽くも揉んでいく。足を温めながら位置を変えていき筋肉が堅くなった部分は念入りに行う。


 マッサージには技術と気持ちが大事なのだという。プロでない樹に大した技術はないが気持ちは十分だった。樹の掌から気力が千種に伝わればいいと思う。


 心持ち千種の顔が和らいだ気がする。強ばっていた目元が和らぎ、口が綻ぶ。


 樹の前では決して見せない安らいだ顔だ。無意識に樹の手が千種の頬に触れる。唇に触れ吐息にくすぐられると次は首筋を辿る。窮屈そうに閉められたシャツのボタンを二つ程外してやる。顕れた鎖骨を撫でた。千種の肌はしっとりとして温かく、いい匂いがする。その肌がどれ程甘いかを樹は知っている。


 その甘美な誘惑は耐えがたく樹を魅了する。華奢な首筋に顔を埋めようとした。


「もう、その辺で勘弁して」


 突然響いた情けない声に顔を上げれば、ドアにだらしなくもたれかかり片手で顔を覆っている八神委清十郎がいた。掌の隙間から見える顔や耳が赤い。


「勝手に入ってくるなよ」


 邪魔された樹は当然の顔で文句を言うが、清十郎が恨めしげな眼を向ける。


「俺はノックもしたし、声もかけました!お姫さまに夢中で誰かさんは全く気付きもしなかったの!」


 あんまり堂々と無視をするものだからてっきり清十郎に対する新手の嫌がらせかと思い暫く見つめてしまった。そうこうする内に千種を撫でる樹の手がだんだん色を含んでエスカレートして行ったのだ。男女のお付き合いなどした事がない初な清十郎はもう耐えられなかった。


「空気を読め」

「ひどいっ」

「セイ、そっと出ていけばいいんだよ。こっちが気付いてないなら尚更」

「それがお前の投げ捨てた荷物を持って来てやった友に言う言葉?」


 清十郎がむくれて樹の鞄をぶらぶらさせた。清十郎は同年の男の中でも小柄でしかも幼い顔立ちなので、樹がすれば噴飯もののそういう仕草が異様に決まるという本人には甚だ不本意な性質だ。


「捨てて来ようかな、これ」


 その中には樹のプライベートが詰まっているわけで、下心満載の男女が争奪戦を始めるかもしれない。樹とて清十郎がいたので放り投げて来たわけだが。


「………セイ、コーヒー淹れて」

「自分で淹れればいいじゃん」

「僕は今忙しい」


 厚顔無恥に言い放つ。清十郎はなんだか毒気を抜かれてしまう。がっくりと項垂れながら部屋に入った。


「………はいはい、そうでしょうよ、お姫様を愛でるのに忙しいでしょうよ」


 全く、リア充爆発しろとぶつぶつ文句を言いながらそれでも清十郎は素直にコーヒーメーカーを手に取った。

 清十郎が居ても樹は一向に気にせずに足のマッサージを続けた。


 コーヒーを二人分手に持って清十郎がソファの背後からのぞき込む。


「椎名さん全然起きないね」

「朝から雨だったから。足が痛んでいたのを我慢して無理をしていた。冷や汗凄かったし体力的に限界だろうね」

「なんか、顔色悪いなとは思ったけど。椎名さんって弱音吐かないし、誰にも頼んないよな」

「頑固なんだよ」


 呆れたような、感心したような複雑な顔をしている樹を見て、何気なく千種の方を見れば千種は安らいだ顔をしていた。基本千種はいつも感情を露わにしないし、清十郎を見ると固まりどこか苦しそうで樹を前にすれば怯えるので、とても珍しい。


「なんか、可愛い」


 清十郎がうっかり呟けば樹に鋭く睨まれる。


「見るな、減る」

「心狭っ、ていうか、お前のものでもないだろう。この自称婚約者」

 図星をついたのだろう、樹の秀麗な眉がピクリと跳ねた。

「いずれ、そうなる」

「相変わらず逃げられているヤツのセリフじゃないね」

「うるさいよ、セイ」


 あっ、やばい。清十郎は咄嗟に口を閉じた。樹の薄青い目が危険なほど細められる。


「まぁ、なんて言うか、頑張れ」


 咄嗟に誤魔化して空いている一人掛けソファに座ってコーヒーに口付ける。


 樹はもう清十郎の事はどうでもいいのだろう、また熱心に千種に向き合っている。マッサージをしながらも手が時折我慢しきれずに、千種の綻んだ唇や、安らかな目元、色づき始めた頬を撫でて行く。樹の美しく常ならば透徹とした水色の瞳には清十郎が気恥しくなる程の熱が籠っている。


 とんでもない光景だな、と内心で清十郎は戦く。清十郎の知っている樹はこんな人間ではなかった。もっと理知的で端然としていた。それが千種のことになると途端に崩れる。恋は盲目と良く言われるが、それにしても樹のこの執着はどうだろう。


 今の二人を一見すれば恋人の戯れにも見える。だが実情は一方通行の思いでしかない。千種は樹に気がないのは明らかだ。清十郎の頭の中にはストーカーとか性犯罪の文字が躍っている。樹に限ってまさかと思いたい。


 自分の友人から犯罪者を出したくない清十郎は樹に幾度となく忠告をしたりもした。どれも徒労に終わった。時折樹は有無を言わせない威圧を纏う。何の根拠もないのに信じてしまいそうになるのだ。「いずれ、そうなる」と樹が言うのならそうなのだろうと思ってしまうのだ。


 それでも千種の相手は樹でも苦戦していると思う。千種は樹を嫌っているというよりも恐れているように見える。樹に対して一層顕著だが、それは樹に限っての事ではなく清十郎やクラスメイトも程度の差こそあれ恐れているようにみえるのだ。


 当然千種のその不可解な態度はクラスでも波紋を呼んでいる。何もしていないのに恐れられるのはある意味とても失礼だ。これで千種が訳も分からずクラスメイト達を加害者扱いし、自分が被害者面するかと言えばそうではないのだ。少なくも清十郎を見る目は贖罪を背負った者の目だ。どうしてそんな目をするのか気付いてしまえば一層困惑は深くなる。


 千種は女子達に嫌がらせをされてもそれを当然のように受け入れる。そうされても自分は仕方がないと思っている節がある。その態度はしている側を増長させるのだ。自分達には千種を虐げる権利があると勘違いさせる。


 樹にしても同じなのかもしれない。千種は樹を恐れ拒絶するけれど、どこかで諦めが見て取れる。もっと強く樹を嫌悪して心の底から拒絶すれば、樹は今のようになっていないかもしれない。


 自分の事でもないのに清十郎はとても憂鬱だ。意識のない、ましてこちらに好意を抱いていない相手に無遠慮に触れていいわけがない。それがわからない樹ではない筈だ。或いはそれを樹にさせてしまう千種に問題があるのか。まるで千種は毒のようだ。


「椎名さんは樹にとってとんでもない存在な気がするよ。俺、今の樹は好きじゃない」


 樹が千種から視線を外して清十郎に向かって人の悪そうな笑みを向ける。


「ああ、嫉妬?」

「違う!」


 ソファから身を乗り出して清十郎が吼える。それに千種が小さく唸りを上げた。樹が軽く清十郎を睨む。清十郎はまた静かにソファに座り直した。


「らしくない、か」

「なんだ、自覚はあるんだ」

「さあ、どうかな」


 樹は曖昧に笑った。

 今まで千種のような人間には出会ってこなかった。自分の反応が単に今まで隠れていた性質なのか千種によって形成されたものなのか判断に困るのだ。確実に言えるのは清十郎が心配する程今の自分を忌避していないという事と千種の出会う前の樹には戻れないという事だった。

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