千種5

 その夜から千種は熱を出して何日も学校を休んだ。熱に浮かされながら沢山の夢を見ていた。それは前世のララエの記憶だったり、記憶が戻る前の千種や事故直後の千種、高校進学した千種の記憶だったりした。目が覚める度に、記憶は混乱していて今がいつの誰なのかわからなくなる。時折、何故かロウが傍にいて、その度に驚いてこれが現実ではないのだと認識していた。

 



 千種の体調が回復して念のためにもう一日休むように言われた日の午後に樹がお見舞いに訪れた。千種は会いたくないとは言えなかった。そんな事を言えば心配性の両親が勘ぐるだろうと思ったからだ。


 パニックになったあの日の事を千種は覚えている。あの日の出来事にどんな意味があったのか千種にはわからない。


 ロウがララエ相手に暴力という名目でも性的な行為を及ぶ筈がないという前提が千種にはある。時間がたてば樹の中に見えた仄暗い何かは違う意味だと思うようになった。された事はブラウスとスカートを脱がされた事だけだ。それも普通ではないのだろうと思ったが、あの時樹はとても怒っていた。千種を辱めたかったのかもしれない。


 千種は訴えたいとは思わない。クラスメイトも樹も。ただそうされて当然だと思っている。

 樹に会うのは怖い。だが、結局は避けては通れないのだとわかっていた。


 千種が応接間に行くと樹が待っていた。樹はソファから立ち上がって千種を迎えたが、わかってはいても千種は動揺が隠せずにおどおどと挙動不審気味だ。

 俯きがちな千種の顔を樹がのぞき込む。小さく千種の肩が跳ねた。


「よかった。大丈夫そうだね」


 その声に怒りや負の感情は感じられない。やはり樹が何を考えているかわからなくて無意識に千種は後ずさった。


 樹の手が千種に伸ばされる。触れる前に樹が手のひらを握り込んで両手を元に戻した。


「座って。話がしたいんだ」


 千種が座るのを確認すると樹も向かいに腰掛けた。


「ごめん。怖い思いをさせた」


 そう言って樹は潔く頭を下げた。千種は呆然としている。


「謝って済む問題じゃないと思ってる。僕は、彼女達の事も含めて学校に告白しようと思ってる」

「やめて!」


 思わず千種は立ち上がっていた。そんな事は一つも望んでいないのだ。千種は自分のせいで誰かを傷つけたくない。


「…………黙っていて欲しい?」


 必死になって千種が頷けば、樹は大きな溜息をついた。千種を見つめる瞳には複雑な感情が浮かんでいる。


「それなら、僕の提案を断らないで欲しい」

「提案?」


 思いも寄らない事に千種は戸惑う。そこへ千種の両親が応接間に入ってきた。


「やあ、樹君」


 千種の父親である善造が親しげに樹に声をかけた。


「お邪魔しています」


 勝手に交わされていく会話に千種一人がついていけなかった。


 千種の両親は温和でとても善良な人達だった。若い頃には善造は企業人らしく厳しい一面も持っていたが、50を過ぎて子供が出来てからすっかり丸くなった。

 母親の華那はおっとりとした性格で半分隠居したような夫との生活を楽しんでいる。


 近頃の二人の関心は娘である千種の事だ。つらいリハビリを終えて、杖をついていても人並みに歩けるようになった千種に素晴らしい人生が待っていると期待しているのだ。


 友達一人も紹介した事もない娘に訪ねてくる異性の友達がいたのだ、普段物静かな華那がはしゃいでいる。

 

「樹君は千種を心配してずっと通って来てくれていたのよ。」


 そう言った華那の顔には期待のようなものが浮かんでいる。


「………うん」


 他に何が言えただろう。思いがけない展開に千種だけが困惑している。ちらりと善造を伺えば、善造も似たような顔をして口を開いた。


「樹君からお前達の事を聞いたよ」

「えっ」


 千種は驚いて樹を見た。頭に浮かんだのは先日の出来事だ。けれど、樹は千種の視線を受けて優しく微笑んでいた。善造も樹を責める様子もなく話を続けた。


「お前達が若すぎる事は心配だが、彼の熱意は本物だ。話を受けてもいいと思っている」

「お父さん、何を言ってるの?」


 やはり、わからないのは千種だけだ。とても嫌な予感がして鼓動が早まる。


「お前達の婚約の話だ」

「え!?」


 思わず千種は声を上げた。善造の言葉がまったく理解出来なかった。善造の話した言葉は日本語である筈なのにまるで外国語のようだ。


「お父さん、誰の話をしてるの?まさか、わたしの話じゃないよね?」


 千種の顔が強ばっている。珍しく焦っている、普段感情を露わにしない娘の姿に善造は笑みを浮かべた。


「千種と樹君の話だよ」

「どうしてそんな話になるの!?」


 思わず立ち上がり大きな声を上げて怒鳴る娘に両親が目を丸くしている。

 我に返った千種は小さく謝罪の言葉を呟いて座り直すと俯いて膝の上で両手をぎゅっと握った。それは小さい頃からの千種が自分の殻に引きこもる時の癖だった。華那が千種の隣でオロオロしている。


「僕が提案したんだよ」


 樹には千種の拒絶が予想出来ていたので、冷静に言葉を続ける。


「君が僕のことを何とも思っていないのはわかってる。それでも、僕は椎名の力になりたいし助けたいと思う。それにはただのクラスメイトじゃ役不足だよ」

「助けなんて」

「一人で頑張ろうとする姿は立派だけど、一人には限界がある。椎名だってわかっているだろう?」


 先ほどからぐらぐらと視界が揺れているような気がして、樹の言葉は千種の耳を素通りしていく。それでも千種は必死で考えようとしている。

 樹は“提案”と言ったのだ。提案を断るなとも。


 華那が黙り込んだ千種の手を握る。


「何も難しく考える事はないわ。婚約といっても正式なものではない口約束のようなものなの。一緒に過ごしてみて無理だと思えばやめればいいし、千種の気持ちが樹君と同じなら正式に婚約すればいいの」

「そうだぞ、千種。お前の気持ちを無視して結婚させる気はない。付き合っていけば相手のいい面も悪い面も見えてくる。その上で二人で判断しなさい。その機会を最初から否定するのではなくな」


 そう言いながらも両親の顔には期待がある。両親から見て樹はきっと申し分のない相手だろう。年齢を考慮して、一時の気まぐれという可能性もきっとわかっている。わかっていても樹が千種を変えてくれるのではないかと思っているのだ。


 千種はいい娘ではなかった。足が不自由になって厭世的で人と関わろうしない頑な娘だ。事故から目覚めた後に自分に生きる資格はないと言って自傷を繰り返す娘を泣きながら何度も止めてくれた。沢山心配をかけている。夫婦の願いは千種が愛する人と出会い結婚して幸せになる、そんな平凡な人生を歩んでくれる事だった。


 千種には両親を責める事は出来ない。二人を失望させる事が怖かった。




 気が付けば応接間には千種と樹の二人になっていた。千種はまだどこかぼんやりしている。


 熱に浮かされている間、千種は沢山の夢をみた。過去の記憶や起こってもいない未来の事も。


 ララエとロウが婚約する―――ロウにとってどれ程の屈辱だろうか。


 千種が見た未来では皆が前世の記憶を持っていて、千種を責め立てた。樹は誰よりも強く深い憎悪を千種に向けていた。


 千種は絶望を浮かべて樹を見上げた。

 樹の水色の瞳は美しく、そこには千種への好意が見て取れた。樹の手が千種に触れる。


「愛しているよ、千種」


 それは酷い過ちだった。起こってはいけない過ち。

 千種の顔が苦しげに歪む。どこまでもララエの罪が積み上がっていくような気がした。誰に許しを請えばいいかもわからない。あるいは、これがララエの罰なのだろうか。

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