千種4

 あれ以降樹が関わる事はないだろうと千種は思っていたが、実際は逆の結果になった。千種の態度が樹を意固地にしたのか、何かと千種に関わろうとする樹。千種が拒絶する度に優しい色を湛えていた樹の瞳に狂おしい何かが混じるようになって行くのを千種は知らない。


 千種を扱いあぐねていた周りは、そんな千種の傲慢ともとれる態度を見て冷たくなって行った。


 千種は昔から浮いた子供だった。小学生の時には車椅子生活だったので周りの子供と馴染めなかったのは勿論だが、子供特有の無邪気さがなかったのも大きい。同世代の子供はいつも遠巻きに千種を見ていた。それでもいじめに合わなかったのはこの学園の校風のお蔭だ。小学生の時は身体障害者の千種のために千種のクラスは担任と2人の副担任がいて常に大人の目があったからだ。


 高等部に進学し、車椅子でなく歩けるようになれば大人の見守りもは必要ではなくなる。千種は自由であると同時に無防備でもあった。




 高校に進学してから早半月が流れていた。夏は過ぎ去り、時折ひんやりとした風が吹く。それ程寒くないとはいえ、頭から水をかぶれば体温が嫌でも奪われる。


 全身をずぶ濡れにして千種は無様に転んでいた。千種の傍には花壇の水やり用のホースが転がり、水を吐き出して水溜まりを作っている。


 そんな千種の周りを女子生徒達数人が囲っているが、誰一人千種を助けようとはしていなかった。彼女達は千種を見下ろしながらくすくすと嗤っている。


「あら大変、転んじゃったの?」


 そう言ったのは千種の足を引っ掛けた女の子だ。


「ごめんなさいね?急に椎名さんが倒れて来るから思わず水をかけてしまったわ。先生に頼まれた花壇の水やりの途中だったの」


 転んだ千種の制服は泥水に汚れて行く。千種がぼんやりとこれでは授業には出られないなと考えていた。


 千種の反応の薄さが気に入らないのか。女の子たちは口々に口を開く。


「やだ、ドロドロじゃないの。もう一度水をかぶったら綺麗になるんじゃない?」

「手を貸した方がいいかしら?でも、そうしたら、私達まで泥だらけになるかもしれなし」

「馬鹿ね、椎名さんは誰の助けもいらないわよ」

「あっ、そうだったわ。ごめんなさい、余計なお世話だったのね」


 何を言われても千種は黙ったままだった。ゆっくりと体を動かして体制を整えると転がった杖に手を伸ばす。千種の手が杖を掴もうとした時それはさっと取り上げられた。

 千種の杖を奪った女の子は意地悪く嗤う。


「いい気味」


 そう言って彼女は杖を遠くに投げ捨てた。千種を囲んでいた女の子達は笑いながら千種を置いて去って行く。


 千種の中に怒りは湧いてこない。彼女達はかつての領民だった。ララエに復讐する機会を与えてあげるべき人達で、その権利が十分にあった。彼女達が望むなら千種は土下座してもよかった。地面に這いつくばる事などなんでもなかった。千種の惨めな姿に溜飲が下がるならいくらでも惨めになっていいと思っていた。


 そうは言っても、このままここに居るわけにはいかない。自力で立ち上がろうとしても足に力がはいらなかった。転び方がよくなかったのだろう。杖があれば立てるくらいは出来たかもしれないが杖はない。


 ようやく千種に焦りが生まれた。早くしなければ、彼が現れそうな気がするからだ。千種を監視しているとしか思えないような勘の良さで彼はいつも千種を見つけ出す。だから、隙を与えてはいけないのだ。


 焦っていたら何度も無様に潰れてしまった。千種の顔も体も泥に汚れ酷い有様だった。そんな中誰かが―――樹がこちらに走ってくる。


「椎名!」


 駆け付けた樹は有無を言わさず千種を抱き上げた。千種の着いた泥が樹まで汚す。


「汚れるから、降ろして」


 千種がそう言うと樹は怖い顔で千種を見下ろした。冷酷な水色の瞳で睨まれると千種の体が固まる。


「黙って」


 千種を抱く腕に力が篭る。樹の腕の中は檻のように頑丈だ。樹が激情を必死で抑えているのが分る。千種は樹の視線に耐えきれず、杖を投げられ方向に視線を逃す。


「杖が………」

「後で取りに行く」


 千種に逃げる隙を与えず、しっかり腕に抱いたまま樹は歩き出した。

 



 この学園は希望があれば専用のプライベートルームが借りられる。厳しい審査とお金が必要だが、それなりに需要がある。千種も小等部の時に借りていた事があった。樹はその部屋を借りている。


 ワンルーム程の広さでちょっとしたキッチンスペースとソファと机がある。樹が慎重に千種をソファへ降ろした。


 千種は身の置き所がない。樹は無言だったが、行動の端々に怒りを抑えているのが見受けられて、どうすればいいかわからない。


 どこからか取り出して来たタオルを抱えて樹が千種の傍に立つ。泥の付いた上着を脱いだ樹から肌の熱気が伝わって来る近さだった。

 千種の頭にタオルをのせて樹の大きな手が千種の頭を覆った。


「やめて!!」


 千種から出るのはやはり拒絶で、樹の怒りを一段と煽ったのか水色の瞳が濃くなった。


「じっとして」

「じ、自分で」


 樹は千種の言葉を無視した。こんな事は初めてで千種は呆然とする。恐怖か寒さのためか体が振るえる。泥の付いた千種の頬を樹が拭う。


「誰にやられたの?」

「………自分で、転んだだけ」

「じゃ、杖はどうしたの?」

「………」


 千種が杖を離す筈がない。そんな事樹は当然知っている。千種は何も言えない。


「今回ばかりは見過ごせない。転んだだけ?僕が転ぶのと椎名が転ぶのではわけが違うだろう。今回は軽傷ですんだかもしれない。次は大事故になるかもしれない」


 樹の冷静に抑えられた声がかえって千種を追いつめる。千種はフルフルと頭を振った。


「何も、何もしないで。彼女達は悪くない、わたしが」

「椎名は馬鹿だ」


 千種は息を飲む。樹から放たれた言葉は刃のようだった。あまりに簡単に千種の心を切り裂く。頭に置かれたタオルでみっともない表情を樹から隠す。


「どうして、こんな目にあって受け入れる。そうされて当然みたいな顔をする。何をされても馬鹿みたいに許すつもりか?」


 そんな事は当たり前だった。千種はララエだから。罪人だからだ。誰も覚えていなくても千種は覚えているから。


 千種の態度は他の人間にはおかしく映るだろう。そもそも千種の頭かおかしいのかもしれない。千種の絶望と諦観は誰にもわからない。だから、千種に言える事は何もなかった。


「………貴方、には、関係ないよ」

「そう」


 樹の声のトーンが変わった。纏う空気まで。先程まではまだ千種への気遣いのようなものが感じられた。


 濡れた千種のために暖房がつけられた筈の部屋が寒々しい。濡れた制服が確実に千種の体温を奪っている。両手で自分の体を抱き締めた。


 樹が千種のタオルを奪う。驚いた千種と樹の視線が交わる。樹の瞳は残酷な光を湛えている。その奥に仄暗い炎が見えた。その瞳の中で千種は惨めに震えていた。


 樹の手が千種のブラウスのボタンを外していく。千種の手が彼の手を握った。笑えるぐらいに震えていて力が入らない。樹の手は止まらない。


「ど…うして………?」


 喘ぐようにか細い声しか出ない。露わになった千種の首筋に樹の鼻先は埋まる。


「い、や」

「今更遅いよ。何をされても椎名は受け入れるんだろう?」


 千種の耳元で樹が囁く。樹は緩く千種を拘束しているだけだったが千種は動けなかった。


 ―――ロウがララエに触れる。


 ララエも無遠慮にロウに触れていた。けれど、ララエには性的な意図が少しも含まれていなかった。幼い心で美しいものを純粋に愛でていたたけだ。

 樹の触れ方はあまりに明確な意図を持っていた。


 千種のブラウスが落とされる。次はスカートだった。恐怖と混乱に支配された千種は碌な抵抗も出来ず信じられないものを見るように樹を見ていた。


 樹の大きな体が千種に覆い被さる。千種の体は簡単にソファに押し倒された。樹の熱と重みを全身で感じる。樹が千種を腕の中に閉じ込める。


 千種は荒い呼吸を繰り返した。これ以上ない距離に樹がいる。二人の吐息が重なり合う。


「千種、僕の名前を呼んで」


 吸い込まれそうな美しい水色の瞳。幼いララエは彼の瞳には空が閉じ込められているんだと思っていた。


「千種、樹と」


 美しい瞳にララエが映っている。誰よりも醜いララエが。

 

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああっ」


 千種の喉から悲鳴が迸った。壊れたように止まらない。驚いた樹が千種を押さえつけた。


「千種!千種!!大丈夫だ、落ち着いて!!」

「うああああああああああああああああああああああっ」

「これ以上何もしないからっ!千種!!」


 樹が千種を抱き締めながら何度も千種の名を呼んだ。悲鳴が嗚咽に変わり涙でぐちゃぐちゃになった千種の顔を樹が撫でる。抵抗を忘れた虚ろな瞳には樹は映っていない。


「千種、大好きだよ。僕から逃げないで、拒絶しないでくれ」

「………」


 ぼんやりと霞む意識では樹が何を言っているのか理解出来なかった。ぐずるように首を振る。また一つ涙が零れた。

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