千種3

 それからの千種は中学の頃に輪をかけて頑なになった。千種の認識ではクラスメイト全員がララエの関係者の中、普通に過ごす事は不可能だった。クラスに馴染もうとしない千種は異端児で問題児だ。


 そんな中で千種のお守り役となったのは今年赴任したばかりの副担任だ。学生を卒業したばかりの副担任は気性が穏やかで気さくで学生達にとっては教師というよりも友達の延長のようなものだった。何より、彼がララエの関係者ではなかった事が千種の多少の心の安らぎになっていた。


 このクラスの中心人物はロウだ。今世の名を斎賀樹と言う。ロシアとのクォーターで水色の瞳は祖母の家系から受け継いでいる。日本人離れした手足が長く肩幅のあるバランスの取れた身体と端正な美貌で学院での人気は高いが、今まで千種が彼の存在を知らなかったのは彼が中学の時に編入して来た外部生だったからだ。


 樹と親友なのが八神清十郎。前世でのロウの恋人だったあの侍女だ。清十郎は誰とでも打ち解ける人懐い性格で、千種にまでその性格を発揮しようとしては失敗している。千種は彼にどう接していいかわからず、結局俯いてばかりいた。それは清十郎に限らず、クラスメイト全員に対して言える事だった。


 消えてなくなりたいと思った。前世での彼らの不幸はララエが原因だった。ララエが処刑されて彼らはようやく幸せを手に入れた。ララエは彼らの前から消える方がいい。だが、現実にはそれは難しく、千種が出来る事はなるべく関わらず、そこにいないように振る舞う事だけだった。


 空気のように存在を消しても時折感じる視線がある。そんな時は出来るだけ視界に入らないように逃げるのが常だった。千種が逃げる度に少しずつその視線が強くなる。どうして彼が、よりによってロウが千種などを気にするのかわからなくて、千種の不安は大きくなるばかりだった。普通ではない千種の反応が彼の興味を駆り立てるのだろうか。卑怯で臆病な千種は逃げる事しか出来なかった。




 雨が降っていた。天気予報では夕方から降り始める筈が、昼を過ぎたあたりから雨音が聞こえてきていた。


 湿気を含んだ空気が足の怪我に触るのか、朝から足が痛んでいたから嫌な予感はしていた。残りの授業は2限ある。後少しの辛抱だと千種は溜息を吐いた時千種の机がこつんと叩かれた。


「椎名、車椅子持ってこようか?」


 声を掛けて来たのは副担任である藤島だ。藤島には千種の体の事はある程度話していた。


 教師になったばかりの彼は何かと千種を気に掛けてくれる。初めて担当する生徒に千種のような問題児がいる事が申し訳ないような気がして、千種の態度は藤島相手だと少し柔らかくなる。


「いえ、大丈夫です」

 

 千種は反射的にそう答えていた。目立つ事は極力避けたかったからだ。


「そうか?無理はするなよ」


 藤島は少し困ったような顔をしたが無理強いするような事はしなかった。千種がここで無駄に言い合うのを嫌がる事を知っていたからあっさりと引き下がってくれる。


 千種が素直に頷くと微かに微笑んで、他の生徒にも声を掛けながら教室を出ていった。




 次の移動教室は運の悪い事に教室から一番遠い棟にある。速く歩く事の出来ない千種は時間を無駄に出来ないため真っ先に教室を出て行く。階段の登り降りは足に負担がかかるためエレベーターの使用許可が出ていた。そうすると通常の通路からは外れるために遠回りだ。一般生徒の使用が少ないのですれ違う学生もいない。


 半分くらい歩いたところで千種の歩みが止まった。壁に手をついて体を支える。足が痛んで休まず歩き続けるのは難しい。授業には間に合いそうになかった。足を引きずるようにして空き教室の椅子で身体を休ませる。額には薄らと汗が滲んでいた。じんっと痺れるように疼く右足を撫でる。


 車椅子を使用した方が良かったかもしれないと、藤島の提案を断ってしまった事を後悔する。千種が授業に遅れれば何かしらの騒ぎになるかもしれないのだ。かえって迷惑をかける事になるのだから、自分が嫌になる。


 千種は何時もこうだ。最善だと思って行動しても、後から自分の浅慮に後悔する。


 千種以外誰もいない教室に微かな雨音が響いている。思った以上に身体が休息を必要としていたようで座っていると強い眠気が襲って来た。注意が散漫になって人の気配に接近されるまで気が付かなかった。


「椎名」


 名を呼ばれただけで千種の身体が強張る。恐る恐る目を開ければ千種の目の前に樹が困った顔で立っている。


 返事のかわりに椅子のひきずる無様な音が鳴る。本当は直にでも立ち上がって逃げたかったが、実際には椅子を後ろに引くくらいしか出来ない。


「どうして………」


 彼がここにいるのだろうか。何故わざわざ声をかけてくるのか。彼の意図が千種には全くわからなかった。


 咄嗟に他の人がいないかと樹の背後を気にしても誰もいない。彼と二人きりなのだと思うと体が震えた。千種は怯えて血の気の失せた顔をしていた。興味を惹かないように普通を心がけても彼が相手では難しい。


 授業を知らせるチャイムの音が鳴った。樹は気にする素振りも見せず千種を真っ直ぐ見据えている。


 樹がしゃがんで千種と目線を合わす。千種は反射的に後ろへ下ろうとしたが椅子の背に阻まれた。杖が滑り落ちるのを樹が受け止める。杖をそっと千種の膝の上に置く。


「足が痛むの?」


 ロウの水色の瞳の中にララエが映っている。それは、とても恐ろしい事だった。固まって反応出来ない千種を難しい顔で見ている。


「抱いて行こうか?その方が速い」

「いいの!」


 咄嗟に出た拒絶の言葉が強く響いた。まともに樹の顔は見られない。


「………ほっておいて」


 呆れて怒って行ってくれればいいと思ったが、樹が動く気配はない。


「椎名」


 優しく千種を呼ぶ。それがあまりにも非現実的だった。千種が何者か知ったら彼はどうするのだろう。憎しみに凍てついた瞳が焼き付いている。ララエは彼にとって憎しみと苦しみの象徴だ。


 千種は樹から逃れるように俯いて杖をぎゅっと握りしめる。


「大丈夫だから、もう行って」

「そんな酷い顔色で言われても、説得力がないよ。立つこともままならないんでしょう?椎名が動かないなら僕もここから動かない」


 樹が引く気配が全く見られない。千種には今の状況が理解出来なかった。足の痛みに加えて頭まで混乱してくる。兎に角、樹を納得させる理由が必要な事だけはわかった。


「じゃ、藤島先生を呼んで来て」

「………」


 樹の視線が注がれているのを感じる。どうしてそんなに強く見つめるのか。沈黙が耐え難く千種の手足が冷たくなって行く。ロウが重い溜息をつく。それだけで悲鳴を上げてしまいそうだった。


「椎名はどうして僕に怯えるの?」


 何も知らない樹にとっては理不尽だろうか。千種にとっては当然の事で、ロウなら歯牙にもかけないだろう。


「僕は君を傷つけたりしない。………君の力になりたいだけなんだ」

「………」


 樹が今どんな顔をしているのか何を思っているのか千種にはわからない。こんなやり取りは無駄である事は分かっている。頑なに顔を背けていると樹が立ち上がった。


「先生を呼んでくるよ」


 樹の気配が消えるまで顔を上げなかった。千種は詰めていた息を吐き出して両手で顔を覆った。


 ララエはロウに恨まれている。ララエが千種である以上一生忘れてはならないのだ。

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