千種2

 私立鳳凰学院は幼稚園から大学までのエスカレータ式の、富裕層の子息のための学院だった。格式と歴史を有し礼儀作法はもちろん文武両道も謳われており、入学出来る人間はかなり厳選されている。高い授業料は、その分学院生活を一人一人の生徒の意思を十分に配慮された快適なものにしている。


 千種の両親が身体障害者である娘を、この学園に入学させたのは当然の成り行きだった。


 アメリカでのリハビリを終えて2年振りとなる母校に千種の心は何の感慨も浮かばなかった。この場所に思い出と呼べるものもなく、同級生だった3年生にも特別親しくしていた者もいなかった。


 7歳から15歳の間この学園で過ごしても、千種はいつも一人だった。自分の頭がおかしい事を自覚していたので、他人と関わり合う事をせず、静かに過ごしてきた。


 そんな千種の2年遅れての進学は年下の生徒達に馴染めるのか学校側や両親の懸念事項だったが、千種は全く問題にしていなかった。多少悪目立ちするかもしれないが、それも最初のうちだけで千種は以前と同様に淡々とした静かな高校生活がスタートするのだと思っていた。




 新しい教室の入り口で千種は茫然と佇んでいた。血の気の引いた青白い顔は幽霊か悪夢でも見ているようだった。


 一人の生徒が教室に入ろうとしない千種を訝しげな視線を送るが、隣の席の生徒に話しかけられて視線は直ぐに反らされ、千種に注意を向ける者はいない。


 目に前に広がるのは何の変哲もない風景。新たに始まる生活に少しの不安と期待を抱いてざわつく教室。初々しく新しい制服に身を包んだ生徒達。親しく言葉を交わす者もいれば、黙って席についている者もいる。多くは持ち上がりだが、外部からの入学生もいるため隠しきれない緊張が漂っている。


 この場の空気感―――期待、興奮、緊張、どれも千種からは遠かった。およそ平和なこの光景が、明るい筈の教室が薄暗く歪んで見える。


 ただでさえ他人に無関心な千種には2歳年下のクラスメイト達の中で一人として千種が見知っている顔はいない。けれど、千種の心臓は異常な程に鼓動が高まり胸を突き破らんばかりに暴れている。


 この場を早く離れるべきだと、まだ冷静な自分が警告している。あの酷いパニックになる前に。騒ぎを起こせば迷惑をかけてしまう。両親を悲しませる事になるとわかっていたが体が動かなかった。


 正常な視界は失われて、生徒達の顔は濃い霧に包まれているようにぼやけている。そのくせ、目だけは爛々と輝いていた。


 この目を千種は知っている。姿形は違っても、ララエは覚えている。彼らを覚えている。彼らはただの千種のクラスメイトなどではない。


 あの日、ララエを見つめた沢山の憎しみの目だ。ララエを捕え石を罵声を浴びせた者達。ララエ達親子が虐げた罪のない領民達だ。


 容赦なく浴びせられた殺意と憎悪。その深さがララエの罪の深さだった。

 

 心の底から震えあがる。しっかり踏みしめている筈の足元がぐらぐらと揺れる。千種の精神があの日に引っ張られて全身に痛みが襲った。


 いつまでも動けずに入り口を塞いでいたのが悪かったのだろう、誰かに背中を押されて千種の体は簡単にバランスを崩した。


「わっ、危ない!!」


 千種の腕を力強い腕が掴んだ。手にしていた杖が乾いた音を立てて転がった。教室中の視線が集まるのを感じて千種の体が震えた。


「ごめん!大丈夫?」


 腕を掴んだままのその人は俯く千種を覗き込んだ。大きな黒い瞳が少し生意気そうな可愛い感じの小柄な男子だった。


「!!」


 千種は固唾を飲んだ。彼を見た瞬間に彼が誰だかすぐに分かった。性別が違ってもララエの魂にロウと共に刻まれている。


 ―――彼はロウの大切な人。ララエが残酷に傷つけたあの侍女。

 

 ロウの前で彼女は美しく笑っていた。醜いララエとは違って、ロウの隣に相応しい美しい娘だった。ララエの醜い嫉妬がその笑顔を奪い去り彼女を傷つけた。その後の彼女の詳細をララエは知ろうとはしなかったが、最後に見たロウの様子を見ればララエが永遠に許されない事だけは知っていた。

 

 何も知らない彼は、驚愕に目を開いた千種の尋常でない様子に困惑している。


「椎名さん?」


 名前を呼ばれても千種は反応出来なかった。こんな普通に話しかけられる事も名前を呼ばれる事も考えられなかった。精神の許容量を超える出来事にめまいと吐き気に襲われる。千種の周りの空気がどんどんの薄くなり周囲が迫ってくる。圧迫されて存在が消えていくような錯覚。


 彼が酷く焦ったように声を張り上げた。


「え!気分が悪いの!?ものすごい汗だけどっ、大丈夫じゃないよね!?」


 慌てた彼の手が千種の肩を無造作に掴もうとしたのを止める人物がいた。千種の視界が陰る程背が高い。


 新たな人物の登場に千種は全身から冷や汗が噴き出す。顔を上げるのが恐ろしかった。これ以上の現実は耐えられないと思った。


「セイ、何をしているの?」


 若い男の落ち着いた耳触りのいい声。叫び出したい恐怖を千種は必死に押さえ込んだ。


 彼の視線が千種を観察している。視線には何の感情も含まれていないとわかっていても千種の恐怖は増すばかりだった。


「彼女が怖がってる」

「ええ!!俺のせい!?俺なにもしてないっ、ぶつかったけど!!って椎名さん!さらに凄い顔色だよ!」


 千種の体が明らかに震えている。したたり落ちる汗が床を汚す。返事すらまともに出来ない千種の体が宙に浮いた。


 千種の目に飛び込んで来たのは、空の色をした瞳。千種の心臓が大きな力で握り潰されたように縮こまる。


 断りもなく千種を抱き上げたその人は何でもない事のように千種を見下ろした。


「ちょっと我慢して。保健室に連れていくよ」


 艶のある黒い髪にアジア系とも北欧系とも見える端正な容貌。人を虜にする美しい水色の瞳。少しの気遣いを滲ませて腕の中の千種を見下ろしている。


「………ロ、ウッ」


 干上がった喉から絞り出すように乾いた声がこぼれた瞬間、千種の左胸の痣が突然耐えがたい程の熱を持った。右足が粉砕された痛みを思い出し凄まじい痛みに身を捩る。苦悶に顔を歪め獣めいた呻きが口から零れそうになって歯を食いしばった。


 急な千種の変化に驚いたのだろう、ロウ達が息を飲んでいる。腕の力が緩まった隙に千種はロウの腕の中から抜け出した。転がり落ちるようにその場に蹲った。


 千種は混乱している。前世の記憶か、事故の記憶のせいか、ひどい苦痛と噎せ返るような血の匂い。今自分の体が全身血まみれである事を千種は疑わなかった。


 こちらに向かって伸ばされる白い手を千種は恐怖と共に拒絶した。


「………やめてっ、触らない…でっ」


 下半身の感覚のない動かない体を精一杯遠ざけようと引きずる。


 その場に居合わせた者達が皆千種を見ている。狂人を見るような目をしているのだろう。千種は小さく縮こまり涙が滲む瞳を堅く閉じた。



 ―――これが現実なら、これが因果ならララエは余程恨まれている。許しがない程に。

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