第3話
足を使って走るのは結構しんどいけど、奏のことだったら追いかけられる。
階段を転ばないよう丁寧に駆け下り、急いで廊下の角を曲がった。
奏は僕を気にしてはくれているみたいに、時々は振り返る。
だけど待つ気は全然ないみたいで、奏との距離はどんどん開いていって、それでも追いかける僕は、ついに足をもつらせ、思い切り転んでしまった。
ドサリという大きな物音が、誰もいない廊下に響く。
それに気づいた彼女は、ようやく立ち止まった。
僕はもう息が苦しくて、立ち上がることも出来ず、上体を起こすだけで精一杯だった。
なんとか床に腰を下ろしたまま、廊下の壁にもたれ天井を仰ぎ見る。
地上で体を動かすのは、自分の体の重みとの戦いだ。
腕を持ち上げることすら難しい。
荒い呼吸が落ち着くのを待っていたら、奏が近づいてきた。
「息……が、苦しいの?」
「走りすぎたから」
体から変な水が吹き出している。
これが汗ってやつか。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
奏が自分から話しかけてきてくれている。
それだけでうれしくなる。
彼女はまだ呼吸の整わない僕の前に膝を折りしゃがみ込むと、難しい顔をしたまま首をかしげた。
「お願い。教えて。私は本当に、あなたのことを何にも知らないの。どこの誰かも分からない。なのにどうしてあなたは、私を知ってるの? どうしてそんな簡単に、好きだとか言えるの?」
「……。僕のこと、怖い?」
「怖いし気持ち悪い」
そっか。奏はそんなふうに思ってたんだ。
だからこんなに避けられてたんだ。
「僕は本当に、君のことが好きだから」
ゆっくりと体を起こす。
だけどその理由を、教えるわけにはいかない。
「僕は奏が大好きで、奏にも僕を好きになってもらいたいだけ」
真実のキスさえ済ませてしまえば、僕が人魚から人間になれれば、こんなことも終わる。
そうしたらもっと普通に、彼女とも過ごせる。
だから一刻も早く、彼女とキスがしたい。
そっと微笑んで、彼女の頬に指で触れる。
鼻先を寄せ、僕は彼女に唇を近づける。
「だから、そういうのやめてって言ってるのが、分からない?」
肩をグイと押され、僕の体は簡単に廊下の壁に戻された。
僕の肺はまだ悲鳴をあげていて、どうしたって彼女には敵わない。
「何考えてるの? 信じられない! 頭おかしいでしょ? ホントにヤダ」
奏の頬を、一滴の滴が流れる。
その目から、止めどなく涙が溢れ出す。
人間が流す涙の本物ってやつを、初めてこの目で見た。
その涙はとてもきれいなものだと聞かされていたけど、そんなことは全然なかった。
こんなにも悲しいものだったなんて。
だけど僕は、それを知るために彼女を泣かせたかったわけじゃない。
「ゴメン、泣かないで。そんなつもりじゃなかったんだ」
奏の両方の目から溢れ出す水に、そっと触れる。
「触らないで!」
弾かれた手が、その痛み以上に僕を傷つける。
彼女は本当に怒っていた。
「もう二度と触らないで。話しかけないで。部活も辞めて。私に近寄らないで!」
「それは困る。そんなことしたら、僕は死んじゃうよ。僕はずっと奏のそばにいたいし、一緒に楽しいことを、沢山したい」
「私が嫌だって言ってんの!」
彼女にそう言われたら、本当にどうしようもない。
泡となって消えるしか残されてないんだ。
そのために僕は海を出てきた。
「じゃあ、どうすればいい? 僕はもう、奏とは仲良くなれないの?」
「これから私は部活に行くけど、その時に一切こっちを見ないで。話しかけないで。話題にもしないで。もちろん触るのも禁止。その約束が守れるのなら、学校の中だけでは普通にしゃべってあげる」
「奏がそうしたいの?」
「そうよ!」
僕はしゃがみ込んだ廊下で、目の前にいる彼女を見上げた。
それはとても辛い約束だけど、彼女がそれを望むのなら、僕はそうする。
「分かった。約束する」
彼女が不意に小指を差し出したので、僕も同じように小指を差し出した。
奏はそこに自分の指を絡めてくる。
彼女の手の一番隅っこについた五本目の指は、とても小さくて細くて柔らかかった。
「約束破ったら、絶交だからね」
「うん」
「本当に約束破ったら、もう絶対に許さないからね」
「うん。ちゃんと守る。もう僕からは話しかけないし、奏のことも見ない」
絡めた指と指がほどける。
まだその感触は残ってるのに、彼女はスッと立ち上がった。
これから僕は、もう奏には自分から話しかけてはいけない。
「そしたら、僕のことを嫌いにならないんでしょう? 仲良くしてくれるんでしょう?」
「……。約束守れたらね」
彼女は廊下の角に消え、僕はゆっくりと立ち上がる。
大丈夫。
ちゃんと約束したんだから。僕はそれを守るし、彼女も守る。
奏とした初めての約束なんだから、僕は守る。
僕は奏を好きだけど、奏にも好きになってほしいから。
寂しいけど、よかった。
これでちょっと安心できる。
しばらくは、たぶんきっと平気。
それからの僕は、奏と約束した通り部活に行っても彼女に声をかけなかったし、見向きもしなかった。
本当は凄く見たいけど、目を合わさないように足元だけで彼女を探している。
集まった男の人間たちに混じって、岸田くんの命令に従いずっと体を動かしていたし、文句も言わなかった。
ただ他の男の子たちにはついていけないから、疲れたら群れから離れたところで座ってる。
少しずつ動けるようになってきたけど、まだまだ追いつけない。
「お前、本当に軟弱なんだな。今までどうやって生きてきたんだ」
そんな僕を見かねた岸田くんが、そんなことを言った。
海では平気でも、陸で出来ないものは出来ないのだから仕方がない。
「さてね。これでも結構楽しくやってたよ」
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