第4話
次の日もその次の日も、僕は奏との約束を守って彼女に話しかけたりはしなかった。
朝は一番に教室に入って、自分の席で彼女を待つ。
見ちゃダメって言われてるから、見ないフリしてこっそり見てる。
たまたま僕の後ろの席だった岸田くんに連れられて、学校のこととか部活のこととか、色々教えてもらえるのはよかったけど、それが奏ならもっとよかったのに。
僕は奏以外とは話したくないし別に話す必要もないので、ずっと黙って自分の椅子に座っている。
机に寝ているフリをしてこっそり彼女を見ているけど、コレ、いつまで続くのかな。
僕にはあんまり時間がないんだけど。
「お前、奏と約束したんだって?」
いつものようにプール前のじめじめした広場で、柔軟体操というのをやっていたとき、岸田くんが聞いてきた。
最近はずっと、僕は岸田くんと筋トレをしている。
冬の曇り空も見慣れてきた。
「なにが?」
「もう奏とはしゃべらないって」
どうしてそれを彼が知っているのかは知らないけど、奏との約束を二人だけの秘密にするっていう約束は、そういえばしていなかったことを思い出す。
「そうだよ」
彼は両足を広げて座った僕の肩を、斜め上からぐいぐい押していた。
出来たての僕の体は固くはないけど、押しつけられる岸田くんに遠慮がないのはちょっと無理。
「もう諦めた?」
「なにを」
「奏のこと」
「僕にその選択肢はないんだ」
岸田くんは奏の友達で「いい人」って言ってたから、いい人だ。
それでも彼とするこの柔軟体操とかいうやつは、嫌いじゃないけど好きでもない。
「悪いけど、それだけは譲れない」
おせっかいな岸田くんを押しのけ、すっかり僕の休憩場所として定着したベンチに腰を下ろす。
初めの方こそ、ここの人間たちはバカにしたようにすぐに休む僕を見ていたけど、それにももう飽きたみたいだ。
僕だって、もうすっかりこの筋トレには飽き飽きしている。
「ねぇ、いつまでこんなことしてんの? 好きだよね、筋トレ」
少し気温は緩んできたとはいえ、真冬のプールは相変わらず緑色をしていて気持ち悪い。
「プールだってずっと汚いまんまだし。いくら泳げるようになるっていっても、こんなところじゃ泳げないよ。てゆーか、こんなところで泳ぎたくもないし」
僕が休憩に入っても、岸田くんはずっとその場に動かないでダッシュしたり、ヘンな角度に体を曲げて無理矢理バランスをとったりしている。
「そりゃ俺だってそうだよ。こんなプールじゃ泳げない」
「じゃあなんでこんなことしてんの。ここって、泳ぐ人たちじゃなかったの?」
「泳ぐために今これをやってんだろ」
僕にはそれが不思議でたまらない。
なんだろう。
こうやって筋トレという儀式をすることで、あの汚い水が浄化されるよう祈りでも捧げているのだろうか。
「筋トレしたら、泳げるようになる?」
「そうだよ。早く上手く泳げるようになるための、準備だからな」
「筋トレなんて、しなくても泳げるよ」
僕がそう言うと、そこにいた人間たちの顔色が変わった。
ずっと僕を馬鹿にして見下していたのに、怒りの感情が追加される。
「筋トレ飽きた。早く泳ぎたい」
「そんなこと言う奴で、本当に泳ぎが早い奴って、見たことねぇんだよな」
吐き捨てるようにつぶやく岸田くんの言うことだって、僕には理解しがたい。
「それはきっと、そういう経験が少ないからだよ。仕方ないよね。陸は海より狭いしね。君たちがそういうことを知らないのも無理はない」
人間の寿命は短い。僕はもう200年は生きた。
だから生まれて100年も経たずに死んでしまう人間には、人魚にはない幼さがあると思うんだ。
もちろん人間より長く生きることに、優越感なんて全くないけれど。
「だから、本当に泳ぎたいんだったら、こんなところで筋トレなんてしてないで、ちゃんと泳げるところに行って、そこで……」
岸田くんはのそりと立ち上がると、僕の視界を塞いだ。
彼の太い腕が僕の胸ぐらを掴み、ゴツンと額を合わせる。
今の彼の茶色い目は、決して冗談を許さない。
「お前さぁ、本気でなんで水泳部入部しようと思った? 奏の後追いかけるためだけなんだったら、部活辞めて余所でやれよ」
「誰にも邪魔はさせないって言ったよね。僕の行動を決めることが出来るのは、僕と奏だけだ」
「残念だったな。俺はこの水泳部の部長なんだよ。俺が辞めさせると決めたら、お前はここに居られなくなんだよ」
「悪いけど、そんな脅しが利くのは、人間同士だけだから」
岸田くんの強ばった表情がピクリと動いた。
本当にくだらない。
僕には、こんなことで時間を潰しているヒマはない。
「ねぇ、苦しいから放して。僕の肺はここでの呼吸に慣れてない。まだ息をするのが若干難しいんだ」
「お前ってさぁ、なんでこんな……」
何かを言いかけて、彼は話すのをやめた。
考え込んでいるかのようにむっつりと動かなくなった手を振り払おうにも、力では敵わない。
突然岸田くんは、もがく僕をあっさりと開放した。
締められた喉元が苦しい。
少し気道が狭まるだけで、やっぱり咳き込んでしまう。
ごほごほとその場にしゃがみ込んだ僕に、岸田くんは吐き捨てるように言った。
「ちっ。やってらんねぇな。ホント」
彼はもうきっと、本当に面倒くさくなったんだ。ごつごつした背を僕に向ける。
「そんなに体が弱いんじゃあ、泳ぐったって完全に戦力外だろ。ここはお前のリハビリ施設じゃねぇんだよ。入部したとしても、マネージャーも無理なんじゃねぇの? つーか、そんな性格で他の連中と上手くやれるのか?」
「僕はここにいるって言ったよね。それは誰にも邪魔をさせない」
「邪魔してんのは、お前の方だろ。ここの仲間になりたいのなら、もうちょっと上手くやれよ」
「上手くって? どうすればいいの?」
そんなこと、僕の方がもっとずっと知りたい。
そんなこと、僕がちゃんと知っていたなら、僕はこんなところで、こんなことをしていなかった。
「僕がここにいる理由は、僕が決める」
「邪魔なんだよ。今すぐ出て行け。ここはお前みたいなクズが、来るようなところじゃねぇ!」
岸田くんの剣幕に、すっかり静まりかえる。
僕は膝についた陸の土を払い、立ち上がった。
居並ぶ水泳部員たちを見渡す。
「なにがそんなに気に入らないのか知らないけど、僕はここを辞める気はないから」
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