第3話

 走ったりジャンプしたり体を曲げたり……。

海にいた時には全くやったことのない、陸での動きだ。

使う筋肉も種類も全然違う。

僕の真新しい心臓は破裂寸前だったし、肺だってこれ以上息が出来ないっていうくらいにゼーゼーしてる。

足も腕も慣れない使い方をしたせいで、さっきからなんかプルプルしてるし。


「つーか、よくそれで泳ぎが速いとか言えるよな。どのレベルで言ってんの?」


 茶色の彼は、何人かいるこの仲間たちの中では一番余裕があって、一番上手で丁寧で、一番たくさんの数をこなしていた。

そんな彼は僕を見下ろして、呆れたようにフンと笑う。


「ま、プールも知らないんじゃあ、しかたないか」


 僕はここにいる人間たちの誰よりも、奏や他の女の子たちなんかよりもずっと、走るのは遅くて、体力もなければ力もなかった。

呼吸はすぐに乱れ、息苦しくなって地面に倒れ込む。

キツい。

陸の生活って、海とはこんなに違う。

ここでは僕の体は、何の役にもたたない。

冷たい土の上で動けなくなった僕を見かねたのか、茶色の彼は渋い顔で手を差し出した。


「ほら。こんなところに寝てないで、立てよ。そこでちょっと休憩してろ」


 人間の手だ。いま僕の目の前に差し出されているのは、間違いなく本当の人間の手だ。

それが今、知り合ったばかりの僕に向かって差し出されている。

初めて彼らの方から僕に向かって差し出された手。

僕はその手を掴んだ。

人間になって初めて、人の体温に触れたような気がする。


「ありがと」


 まだ騒ぐ心臓と苦しい呼吸を抑えながら、僕は彼に示されたプール前の広場に設置されたベンチに横になった。

薄暗い真冬の曇り空の下、植木に囲まれちょっとジメジメしたこの場所に集まった人間たちは、奏も茶色い髪の男の子も、飽きることなく筋トレとやらを続けている。

この茶色の彼は、やっぱりここのリーダーみたいだ。

文句なく一番に足が速くて、動きが俊敏で、他の仲間への気遣いも見せている。

奏は女子のリーダーっぽい。


 僕の全身は悲鳴を上げていた。

腕も足もプルプル震えて、まともに動かすことが出来ない。

結局ベンチに横になったまま、彼らが動いているのを、最後まで見ていた。


「岸田くん、いい人でしょ」


 奏が近寄ってきてくれたから、起き上がる。

筋トレもようやく終わったみたいで、全員が地面に腰を下ろしぐったりし始めた。

やっぱりみんなしんどいんだ。

彼女は海でよく見るペットボトルを僕に差し出す。

くれるの? 僕に?

これは全く傷もない新品みたいだ。

中身もちゃんと入っている。


「入部するなら、頑張って」


 ようやく彼女の微笑みが、僕に向けられる。

それを受け取るよう促す彼女の手首を掴むと、強く引き寄せ、そのまま隣に座らせた。


「それ、奏が飲んでいいよ」


 やっと彼女の方から来てくれた。

うれしくて、顔がにこにこしている。

そんな僕に、彼女は大きくため息をついた。


「体弱いの? なにか病気があるとか?」

「ううん。それはないよ。なんで?」

「いや。別に」


 体は健康。新しくなったばかり。

どこも痛くも痒くもない。

ただ人間の食べ物には、まだ慣れない。


「僕はいいから。奏はそれが好きなの?」


 海に流れ着くのは、ほとんどが空っぽのペットボトルだけど、時には中身があったり未開封だったりするのも珍しくはない。

飲んだこともあるけど、どれもあんまり好きじゃない。


「別に好きってわけでもないし、私の分はあるから大丈夫」


 彼女はそれを僕の膝に放り投げると、パッと立ち上がった。

落っこちそうになるのを慌てて受け止める。


「今日はもう終わりだから。早く着替えて来なよ」

「え? 一緒に帰ってくれるの!」


 そう聞いたのに、返事はない。

ムスッとして歩き出した彼女の後ろをついて行く。

奏の言う通り、男子のグループは女子とは違う洞窟みたいな小部屋に次々と戻っていく。

「岸田くん」と呼ばれた彼は、その入り口で立っていた。


「じゃあね」


 奏はそう言って、やっぱり男子とは違う隣の部屋に入って行こうとしている。


「僕も奏と一緒がいいんだけど……」

「お前はこっち!」


 岸田くんはぐいと背中から僕の服を引っ張っると、男子部屋の方に引きずり込む。


「ねぇ、なんかずるくない?」


 それで待ち構えてたんだ。

僕は他の人間の体温でもわもわした狭い更衣室は、あんまり好きじゃない。


「なにがだよ」

「だってさぁ、岸田くんの方が力も強いし、ここのこともよく知ってるんだから、そんなの敵うわけないじゃないか」

「あ? なに言ってんだお前。いいから黙ってさっさと着替えろ」


 男ばかりの部屋に連れ込まれて、仲間として認められたっぽいことがうれしいのか、うれしくないのか、よく分からない。

他のみんなが出ていっても、もたもたと着替えに手間取る僕を、岸田くんは待ってくれていた。


「忘れ物はないか?」

「うん、ないよ」


 彼にそんなことを言われて、なんだかちょっとうれしくなる。

人間の方から僕に話しかけてきてくれることが、うれしい。


「ありがとう」

「……。先に出てろ」

「はい」


 すっかり日の落ちた、真っ暗な外に出る。

かなり気温は低いけど、僕にはこのくらいが丁度いい。

一本だけ立っている外灯の明かりの下に、奏と黄色い長い髪の女の子が待っていた。


「奏! 一緒に帰ろう! 遅くなっちゃったけど、君とならいつだって僕は……」

「おいコラ、宮野。ちょっと待て」


 更衣室の鍵を閉めていた岸田くんが、大きな声を出す。

奏を抱きしめようと両腕を広げた僕は、また岸田くんに背中からつかまれた。


「なんで邪魔するのさぁ!」

「お前、マジでそれやめろ」

「どうして?」

「どうしてって、奏が嫌がってるだろ」

「え、そうなの? 僕は奏が大好きなのに?」


 彼女を振り返った。

奏は確かに、俺を凄く嫌そうな目でにらんでいる。

返事もない。

黄色い長い髪の女の子が、不機嫌にぼそりとつぶやいた。


「ねぇ、宮野くんは、どこで奏を知ったの?」

「あー。そうだねぇ……」


 その質問に、どう答えればいいのだろう。

僕はゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ。

吐く息が白くゆっくりと宙を舞う。

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