第6話 steam gear ⑥


 鼻曲がる感覚をよく覚えている。

 私とそして数十人。まるで玩具箱に無理矢理詰め込む様な閉じた環境で、水浴びをさせて貰えるはずも無くトイレすら与えられない。

 端に積み上がる汚物には虫が集り、寝ても覚めてもその悪臭に吐き気を覚えていた。

 毎日一人ずつその牢屋とも言える所から人が連れて行かれる。

 そしてやってくるのは耳を劈いて鳴り響く絶叫。

 人のものかはたまた別のものか、判別の付かないそれは共通して私と他の人々へ恐怖を与えていた。

 歯はガチガチと小刻みに鳴らし寒くも無いのに肌は震えた。

 何日も耐えた後にやってきた最後の一人。自分の番。

 枯れ果てた涙を尚絞って鉄格子にしがみついた。

 多分頭を殴られたのだろうと分かる衝撃が響いて、私は意識を失う。

 次に目覚めたのは台の上である。そして……凝縮した血の匂い。

 臭い。臭い。臭い。思いっきり暴れるが私の両手足はびくともしない。固定されている。

 そんな私を四人の男が無表情で眺めていた。

 手に握られていたのは大きな刃物。

 嫌だ。助けて。と叫んでもその冷え切った目は何も変わらない。

 そして、彼らは----。

「あァ! はッ、はッ、はッ……」

 夢……。

 私は全身を濡らす多量の汗を感じながら、良かった夢だと心を落ち着かせる。

 最近は見る事が少なくなっていたのですが、そのせいかたまにやってくると張り裂けそうになる。

 鈍重に鐘を打った様な頭痛に頭を抑えながら私は布団の中から起き上がる。

 そのまま台に置かれた水差しをカップに傾けて一息でそれを飲み干した。

 顔も洗いたいけど、時間は……。

 まだ余裕があった。

 私は寝巻きから主人様に頂いた女給服に装いを変えて自室を後にし洗面所に向かう。

 水道の通るそこから水を捻り出し、落ちる水音を感じながら顔を洗う。

「……よしっ」

 拭き上げてからやってくる清涼感。

 あのへばり付く夢もこれで一先ず落ち着きを見せました。

 主人様やアルベルトさんに見せられる顔にはなったと思います。

 私はそのままの足で厨房に向かう。

 頭痛が治るのと比例して私の鼻腔には肉と野菜が焼ける芳しい香りがくすぐる。

 美味しそうな匂いですね。

 アルベルトさんは朝が早いのでもう朝食の準備に勤しんでいるのでしょう。

 まだ薄暗いからか厨房の明かりが廊下へと目立って、私はその中へと入ります。

「アルベルトさん、おはようございます」

 背を向けて調理をしているアルベルトさんへそう声を掛けました。

「おや早いね、おはよう。早速で悪いのだけどそのフライを上げてくれないかな? 良い感じだと思うんだ」

 私は「はい」と応えて油場の前に立ち、油の中に漬かるそれをトングで持ち上げる。

「……お、こんがり狐色」

 素晴らしいまでの黄金でした。

 アルベルトさんは音で分かると言いますが、イマイチその感覚は掴めません。

 揚げ物を全てトレイに乗せて他を見渡します。

 お肉を焼きながら汁物の面倒を見ているアルベルトさん。そして焼けているパンは外に出されて粗熱を取っている。

 お皿とパン籠、その後はフライの盛り付け。この順番で行きましょうか。

 私はトレイを置き、戸棚から皿を取り出して九つを台に用意。籠を取り、まだ手には優しくない筈の温度のパンを纏めて潰さない様に詰めました。

「相変わらず豪勢な朝食ですね」

 私はそう言いアルベルトさんは汁物の火を止めます。

「朝は一番美味しい物を食べるべき。だからね」

「それでも油物は寝起きに堪えますよ」

「まだ若いのだからそんな事言ってはいけないよ。この歳になると、食べたくても食べられないんだ……」

「胸焼けするんでしたっけ」

「そう。食道の辺りがムカムカする。……よし、出来た」

「お皿出してます」

「ありがとう。ほいっと」

 そして私も油の切れたフライを皿に移し、付け合わせとソースを盛り付けます。

 それから一通り用意が済んで後は食事の場へ運ぶだけになりました。

「並べて来ますので後休んでいて下さい。主人様も起こして来ますね」

「じゃあ少し休もうかな……。坊ちゃん昨日の夜は遅かったからきっと寝起きは悪いよ」

「起こさなくてもそれはそれで機嫌が悪くなるので、それなら私は叩き起こしますよ」

「ははは。坊ちゃんは尻に敷かれそうだね」

「そこは弁えています」

 皿を抱えてその場を後にします。

 



「よし、こんなものかな……」

 綺麗にシーツを引いて食事に関わる一切をその場に。後は食べるだけ。

 主人様の部屋まで早歩きで駆けてその扉を軽く叩きます。

 ……返事がありません。これはまだ睡眠中ですかね。

 私は心を決めて一気に空気を吸い込みます。

「主人様! 朝ですよー!! 食事のご用意が出来ました! 冷めてしまいますよー!」

 そう叫びながら力を押さえて扉を叩きます。

 繰り返していたらその内壊してしまいそうですね。

 中で何かが落ちる音が響く。

 そして不機嫌そうな足音が近付き扉が開く。

「五月蝿過ぎる……雷よりも喧しい……」

 寝癖としょぼついた目元のままで主人様が顔を出しました。

「おはようございます主人様。目、真っ赤ですね」

「あぁ? あんまり寝てないんだよ……。あー駄目だ皮肉る元気もない……」

 主人様は大きな欠伸をすると部屋から廊下に出ます。

「次は丸一日起きていられるか試してみては如何ですか?」

「実験過程と結果がまるっきし頭から飛ぶ。だからもうやらん」

 再度欠伸をかくと主人様は食事場へと歩き出しました。

 冗談のつもりでしたがもう試していたのですね。これは体への悪影響を心配しますが、言って聴く方でも無いので中々に困ります。

 覚束無い足取りの主人様に後を続きます。

 戻るとアルベルトさんがテーブルの横で立っていました。

「おはようございます。主人様」

 そう言って軽く会釈をしました。

「おはよう。アルベルト……」

「あらら目が真っ赤でございますよ」 

 同じ事を言ってますね。そう思うと主人様は私達に指を差して、

「同じ事言ってる。お前ら二人」

 そう言いました。考えが繋がってしまいましたね。

 アルベルトさんと目を合わせて私達は軽く笑います。

 私は椅子を引いて主人様がそこに座り、そして食事を前にするとその表情はあまり良くありません。

「……無理をした後の朝食は堪えるな」

「食べなくては駄目ですよ。先代様の頃からの決まりなのですから」

「あぁ、分かってる。……食ったらもう一眠りするか」

 私とアルベルトさんも席に着いて手を合わせます。

 食事にありつける事への感謝を。そして一日の平穏を願って。

 横目で主人様を見ると手に取ったパンを小さく口に運んでいました。

 可愛いですね。

 私もスプーンを手に取り食事に進め始めます。

 一口、二口と汁物を口へ。

 寝起きには腹の虫が治っていましたが、こと食べ始めると騒いできますね。

 食べながらお腹が空くという感覚は珍しくもあります。

 暫く食べ進めて今日の予定について考え始めました。

 一昨日に引き続いて今日も主人様に付き従うのは確かですが、どう行動するのかを聞いていません。

「今日はまた都市の方へ向かうのですよね?」

 私は未だパンを毟る主人様にそう投げかけました。

「ああ。でも今回はオールトのスラム。治安が悪いがそこの伝手を辿る」

 オールト街の暗部。南の方に位置するその一区画は犯罪の温床で旅行者はおろか街の人ですら寄り付く事は無い。

 主にスチームギアを携えた落伍者達の住まう地区でもある。

 木を隠すなら森の中という訳ですね。

「私にとっては少し歩きやすいですかね」

「好奇の目では見られないさ……。スープうめぇ」

「語彙力が亡くなられておりますが」

 やっとの事伸ばしたスープへの感想は、含蓄のある主人様には相応しくない程簡潔でした。

 



「主人様、到着しましたよ」

 苦手な馬の操作に難儀しながら馬と後ろの荷車を預かって頂ける場に停める。

 私は料金を寄ってきた管理人と思しき人へ手渡すとその人は無表情のまま金額を確認。

 お金を仕舞い手綱を渡せとジェスチャーを。渡してその場から降りる。

 荷車の方はうんともすんとも言わないので、まだ寝ていられるのだろうかと考えていると、私が動く前にゆっくりと扉が開きます。

「あ、はぁあ。……よし、良い感じに眠気が飛んだ」

 声色に調子が戻った主人様が少しふらつきながら現れました。

「それは良かったです。外の空気でも吸いましょう」

「……もう自然の匂いが恋しくなってきたな」

 停場から出るとあの庁舎程では無いにしても何かすえた匂いが。

 変わらず蒸気の吹き溜まりであるここは何時だって薄暗さがある。

 街灯もあるのによっぽどですね。

 街路は蒸気に影を落とす人達でごった返していました。

 えっと、確かこの道を真っ直ぐでしたね。

 私は主人様から事前に聞いていた道を進みます。

 中心から離れていくに従い蒸気は晴れて行って、そして街とその奥を明確に隔てている、目的地に繋がるであろう入り口まで辿り着きました。

 特に看板や地名を表す表示物は無かったのですが、奥に広がる質素な家屋群や道の汚なさに考えるまでもありませんでした。

 主人様に一つ目配せをすると大きく頷きます。

 入りましょう。

 私の本来の役目を全うしなければいけない。此処に蔓延る危険はそう心持ちを正してくれました。

 そして踏み入れてから5分、10分。と時間が経ち私達が物珍しいのかやけに注目を集めます。

 しかし拍子抜けにも特にそういった事態がやってくる事はありませんでした。

「ここは少し油臭いですけど中心街よりよっぽど空気は澄んでいますね」

 雲泥の差とも言っていいくらい呼吸には難儀せず、過ごしやすいと言っても差し支えがない。

 前評判とは少し乖離してきていますね。

「そうだな。案外臭いというものは文明の発展に比例するのかもな。ここは良くも悪くもそういったものに少し乏しい」

 街に捨てられた者の集う場所がその中で最も悪影響が少ないなんて皮肉もいい所ですね。

「伝手を辿るって言っておられましたが、一体どの様な人物なのですか?」

「一言で纏めると医者だ。眩暈がするほどの善人のな」

「へー。良い人なんですね」

「そうだな……いや、そうか? あーよく分からん」

「?」

 煮え切らない主人様の言葉に疑問符が浮かびました。

 それからまた時間が経ち、私達はこの辺りでは似つかわしくない様相の家の前で立ち止まる。

 明らかに他の家はボロ屋で今にも崩れ落ちそうな雰囲気を醸し出していますが、目の前の家は一般的なもの。

 そして横に広くありました。

「イェッティエンツォ! 居るか!? アインコオルだ!」

 唐突にそう声を上げ、私の肩は驚きに伸び上がりました。

 呼び鈴等は無いのでしょうか……。

 主人様の言葉に特に反応が返ってくる事は無く、留守にしているのではと思っていると、

「久しぶりだね」

 そう真後ろから声を掛けられ、私は更に心臓が飛び出そうになりながら思わず振り返りました。

 そこには白衣に身を包む短髪で中性的な顔付きの男の方が立っています。

 年代は同じくらいでしょうか。

「驚くから後ろから現れるのはやめろ」

「あはは。ごめんね。此方の女の子は付き人?」

「会った事あるだろう。忘れたのか?」

「え?」

 言葉を返したのは私でした。

 記憶の中にはこの方に思い当たる節は無いのですが……。

 イェッティエンツォさんも同じ様に何か考える素振りで私の顔を凝視していました。

「ふむ……。あー、ギアの同調手術の時の……」

 思い出したのかそう言いました。依然私には覚えがありません。

「……ヴェロニカ、君をあの時救い出してからまず頼ったのがこのイェッティエンツォになる」

「助けてくれた方。って事ですね」

「俺や父さんはギアに精通していても人体については知識は初歩も良い所だった。だからこいつを引っ張り出して手伝わせた」

「心地良く寝ていたのにね。玄関こじ開けられてそのまま担がれて直行さ。本当にビックリしたよ」

「それは今でも申し訳ないと思っている」

「いや、慌てる気持ちも分かるからね。確か出血も酷かった覚えがあるから、ちょっち危なかったかも」

 今まで私の手術を担当して下さったのは診療所の所長かと思っていました。

 そうですか。この方が私を……。

「本当に、なんて言えばよろしいのか……」

「いやいや。僕にとってはそれが普通だから。ところで先生は元気?」

「毎日ピンピンしているよ」

「なら良かった。ずっと現役で居てくれたら嬉しいんだけどねー」

「それでも良い歳だから言ってられないがな。お前もそろそろ此方に移り住んでもいい時期だと思うが?」

「ははは。まぁそのうちね」

 会話が途切れて、イェッティエンツォさんは目の前の家に向かって歩き出しました。

 会話の中の先生というのはまさか。

「あの、主人様」

「何だ?」

「もしかして先生って診療所の……」

「そうだ。それにあの人の弟子でもある」

 合点が行きました。なんとなく雰囲気も似ている気がしますし。

「取り敢えず上がりなよ。目的も何となく検討付いているし」

「悪いな」

 イェッティエンツォさんは玄関扉を大きく開いて私達に手招きをしました。

 それに従って私達は家屋の中に入ります。

「お邪魔する」

「失礼致します」

 そうお声掛けをすると面白かったのかイェッティエンツォさんは小さく一つ笑います。

「他人行儀だねー。そんなに別に畏まらなくてもいいのに」

「大事な事だ。失くしたくない友人なら特にな」

 主人様はさらっと言ってのけます。

 人たらし……。そう思いながら私は訝しむ目を主人様に向けました。

 イェッティエンツォさんは瞳をまん丸とさせてから頬を桃色に染めます。

「……ちょっと心にきちゃった。やめてよもー」

 そう言って主人様の肩を叩きます。

 男性の方……ですよね? いや、でもそれにしては随分と女の子らしい言葉遣いを……。

 口に出して良いものなのだろうかと思いつつも、私の頭の中はその事が気になって仕方ありません。

「あの、失礼を承知してお聞きするのですが、女性の方で……?」

 言ってしまった。そう思いました。

「そうだよ、僕は女の子。此処はあまり治安も良くないんだよ。小綺麗な女性ってだけで危ないから」

 特に憚る様子を見せずにそう言いました。

「だから男性に見えるよう中性的な格好を……」

「イグザクトリー。でも顔合わせ自体初めてのヴェロニカちゃんが騙されるなら完璧に擬装出来ているね」

「声も低いからな」

「気にしてるんだからやめてよー」

 そのまま居間に案内されて、私達は「座って」の声に従い椅子に腰を落とします。

 女性の方なら警戒が……いや、主人様のご友人ですし失礼ですね。抑えましょう。

 私は立て付けが悪いのか少しガタガタする椅子に、これはこれで癖になると感想を。

「何か飲む?」

「いや、済まない。少し急ぎたい」

 ポットを抱えるイェッティエンツォさんに掌を見せて主人様はそう言いました。

「つれないねー。察するに号外に載っていた内容に関すると推察するけど」

 ポットを置くと悲しげに残った湯が撥ねて音を鳴らします。

 そしてイェッティエンツォさんもゆっくり椅子に座りましま。

「……父さんの遺産が盗まれた」

 主人様はそう切り出しました。

「それは不味いね。何処からか話が漏れたのかい?」

「いや、ただの盗っ人だと見ている」

「理由は?」

「襲われたベルメール氏が受けた傷痕に衝動的な部分が多々見受けられる点。意思の感じない荒らし方に金庫を壊そうとして諦めたであろう点。この二つだな」

「偽装って事もあり得るんじゃないかい? 特にプロの犯行となるのならそういった小細工もやってくるよ。僕の様に細やかにね」

「彼は何か大きな物音がして覗いたら金庫を壊す最中の犯人と出会したらしい。目的がコアであるなら家主に見られるリスクのあるこの行動は無意であると言える。更にそこから暴力を受けていて、事からその線は薄い」

「成程、プロなら殺すね。それに被害者本人の談と考えると特に納得いく。そこから強盗に絞って今回こちらに来たわけと。なら僕が話さなきゃいけないのは、ギア関連のお店を営む場所の情報だね?」

「話が早くて助かる」

 イェッティエンツォさんは立ち上がりこの場を後にします。

「地図を持ってくるから少し待っていて」

 最後にそう言い残して。

 私は一つの言葉が浮かび主人様に椅子を近付けます。

「女性のお友達いらしたんですね」

「もしかして喧嘩売ってるのか?」

「やり合っても私が勝ちますよ」

 主人様は華奢ですからね。

 私はジト目の主人様を笑いながら席を戻します。

 ……少しだけ嫉妬してしまいますね。まぁリードキンさん程ではないですが、女性というのに焦燥感もあったりなかったり。

 こういう考えは立場的によろしくないとは分かっているのですけどね。

 数分も待たずイェッティエンツォさんはゆっくりと戻って来ました。

「はいはいお待たせ。これがこの区域一帯の地図だよ。私の知っている限りはマークするから、後は店の人と照らし合わせて足してくれ」

 そう言いながら席に着きます。

「余所者だが、大丈夫か?」

「僕の名前を出していいよ。彼等は絶対に断れないから」

 自信満々のその言葉には彼女がこの地区でどれだけ貢献して来たのかを想起させるものでした。

「助かる。見返りは……」

「あはは、そんなもの要らないよ。友人だからね。その地図は使い終わったら返してね」

「分かった。……また改めて会いに来るよ。それまで元気でな」

「うん。ヴェロニカちゃんもまた会えるといいな。次はお茶しよう」

「はい。楽しみにしています」

 イェッティエンツォさんとお茶会かぁ。

 こんな私と仲を深めてくれようとする方はそういないので、建前でも純粋にその言葉が嬉しく感じました。

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