アンハッピーバースデー

如月姫蝶

アンハッピーバースデー

 野良猫に餌をやるだけやって満足する人々の溜まり場を、私は知っていた。猫は繁殖力が旺盛だ。その公園に行きさえすれば、猫を入手するのは簡単だった。

 私は、猫のことを両親に勘付かれるほどマヌケではなかった。

 学校では常にトップクラスの成績を維持していたし、そういう数値化された部分さえ維持していれば、両親はそれ以上踏み込んではこないのだ。

 父は、元より論外。母も、父の不倫を知ってから、私に構うどころではない様子なので、好都合だった。


 子供は、何をしても許される。盗んでも、殺しても、責任能力が無いからと、犯罪として成立しないのだ。しかし、アンハッピーなことに、十四才を境として、そうもいかなくなるのだ。

 やりたいことをやらないままで後悔するのは嫌だった——


「お母さん、いる?」

 私が、所用のために彼女の部屋のドアを開けると、母は、一人きりで泣いていた。カーテンは閉め切られ、そこは薄暗かったが、母が、丸椅子の上に立ち、天井から吊り下げたロープを握り締めていることくらいは見て取れた。それどころか、ロープの先端の輪っかに頭を通してすらいたのである。

「うっ……羽衣ういちゃん、違うの、違うから!」

 母は、私を見て、なんだかトイレの最中に個室を開けられてしまったかのように慌てふためいた。開けられたくなかったなら、せめてドアを施錠しておくべきだったろうに。

 母が縊死を企てていることなんて知らなかった。そんな企てをするような人は、カーテンは閉めてもドアの鍵は閉めぬといった、気の回らぬマヌケと化すものなのだろうか?

 母が父の不倫に悩んでいることなら知っていた。けれど、謝罪や慰謝料を要求するでもなく、離婚を前提に別居するわけでもなく、いきなりだなんて。どこまで問題解決能力の低い人なんだろう……

「羽衣ちゃん、お父さんを呼んできて……」

 ただ黙って見上げていた私に、彼女は、力を振り絞るようにして告げた。なるほど、この窮状を彼に見せつけるところから交渉を開始しようと思い立ったのか。

「わかった」

 私は頷いた。

 私は駆け出した……全力で、母を支える丸椅子を蹴飛ばすために。

 私は、犬や猫を殺すことには、既に飽きたというか物足りなくなっていた。そこへ降って湧いたこんなチャンスを逃すわけがない。

「ひっ」と言ったが最後、彼女の体は宙吊りとなってギシギシと揺れた。

 私は、七つ指折り数えた。そのくらいで意識を失うらしいという知識はあった。ただ、彼女の脳の死滅と心停止のためには、あと三分は放置して観察を続けなければ。

 彼女の肉体は、暫くの間、リズミカルに痙攣していた。彼女は目を開けたままだったが、その口から悲鳴も文句ももう出て来ることはない。ただ、歯と歯の間から、ゆっくりと舌が突き出す様が、ノロマなカタツムリのようだった。

 そして、カレーの臭いがした。

 そういえば、昨日はカレーだった。母が垂れ流した排泄物から、それが立ち昇っていた。

 

 やがて、観察を終えた私は、母の言葉に従った。珍しく在宅している父を呼びに行ったのである。


——お母さん、いる?

 ふと、何年も前に、親戚からの電話でそう尋ねられたことを思い出した。

——いらない!!

 まだまだ言語能力が未熟だった私は、そう絶叫したことを覚えている。

 それを聞いた親戚のオヤジは、暫しの沈黙の後に大笑いした。

 それを思い出した私は、その時のオヤジ以上に笑い転げた。


 ゆっちんとチャ〜ミンは、番組恒例の企画を視聴者へと告知した。

 ベタかつマンネリだが根強い人気を誇る、「彼に『好き』って言わせちゃおう♡」である。視聴者からこのお題に即した動画を募集するのだ。

 髪を金とピンクに染め分けたゆっちんは、「雨居留守」と名乗る視聴者からのコメントに目を留めた。

「男性の発言にスキという文字列が含まれていることが十分条件なのでしょうか?……やて?

 ま〜、せやな。愛してるで〜いう意味の『スキ』やのうてもかまへんで」

 ゆっちんとチャ〜ミンは、過去の秀作に思いを馳せた。

 例えば、カップルが豪華絢爛なヤキを食す、概ね飯テロであろうという動画があった。

 また、駅伝の魅力について熱く語り合うカップル(当然、タを連呼することになる)もいた。

 さらには、男女の修羅場にて、男が「金を返は無い!」と宣言する動画まであったのである。多少はヤラセの匂いがしても、面白ければ構わないというのが選考基準なのだ。

 チャ〜ミンは、自慢の長い顎をポンと叩いた。

「今わかったで! このお名前、『ウイルス』って読むんとちゃう?

 なんや強そうやな、何年にもわたって人類を呪えそうやな。オモロイ動画を期待してます〜」

 二人は、視聴者へと両手を振って、愛嬌を振り撒いたのだった。


 黒いカーリーヘアの女性が、キッチンで鼻歌を歌っていた。鼻歌に合わせて、豊かなヒップをくねらせるのだ。アニータである。

 少女は、ヒタヒタとその背中に迫った。

「あら、羽衣ちゃ〜ん」

 褐色のファニーフェイスが振り向き、満面に笑みを湛えたのである。

「ケーキ作り、今夜は練習ね。明日は本番で、羽衣ちゃん十四才。ハッピーバースデー!」

 あからさまにネイティブではない日本語だが、アニータは、楽しげに歌うように言う。

「アンハッピーだよ。べつに祝ってくれなくていい」

 羽衣の声は、抑揚に乏しかった。

「どうして? ワタシ、もうすぐ、羽衣ちゃんのパパと結婚してママになるのに」

「父との結婚は、できるものならすればいいよ。でも、あなたを母とは思えない」

 羽衣の物言いは刺々しかったが、アニータは、「アハハ」と笑い飛ばした。

「じゃあ、ワタシ、羽衣ちゃんのお姉ちゃんになるぅ〜。アニータじゃなくてータね! フゥ〜! 若くて美人のお姉ちゃんから、ハッピーバースデー!」

 羽衣は、言葉では返事をしなかった。

 アニータは、ただでさえ大きな眼を極限まで見開いた。

 少女が、全く躊躇の無い手際で、彼女の褐色の首筋に注射器を突き立てたからである。

「う……いちゃ……」

 アニータはもう無駄話なんてできない。呼吸すらできなくなって、キッチンの床に仰向けに倒れた。

 羽衣は、すかさずスマホを操作した。

「ああ、お父さん? 今、キッチンで、アニータに筋弛緩剤を注射したよ。ケーキなんかより、薬を手作りして使ってみたかったから」

 通話しながら、彼女は、予め準備しておいたピーナッツパウダーを、アニータの顔に振り掛けた。それだけではなく、ケーキの材料として辺りに置かれていた薄力粉や砂糖も、ぶち撒けるように振り掛けたのである。

 在宅していた父は、「今、忙しい」なんて言うこともなく、一分もしないうちに血相を変えてキッチンへと駆け付けたのだった。

「早かったね。打ったのは、スキサメトニウム。合成するのに必要な材料は、ネットで、お父さんのクレカで買わせてもらったから」

「スキサメトニウムだと? なんてことを!」

 羽衣は、星がチカチカと瞬くのを見た。父に乱暴に突き飛ばされて、頭を打ったのだ。

 しかし、彼女はにんまりと笑った。父が、薬剤の名を復唱することで、十分条件を満たしてくれたからだ。

 羽衣は、わざとぐったりと倒れたまま、成り行きを観察することにした。医師である父は、アニータの胸に耳を当て、未だ心臓が動いていることを確認すると、彼女の黒いカーリーヘアの頭を仰け反らせた。気道を確保したうえで、空気が逃げないよう鼻を摘み、人工呼吸を開始したのである。それは、濃厚なキスでもあったが、羽衣の予想通りの展開だった。

 筋弛緩剤は、本来、手術の際などに、患者の筋肉から余分な緊張を除去するために使用される。ただし、呼吸に必要な筋肉まで弛緩するから、自力で呼吸することもできなくなるのだ。放置すれば心停止に至るが、そこにはタイムラグが存在する。一分以内に駆け付けた男は、上出来の部類かもしれなかった。

 彼が人工呼吸を続けるうちに、やがて、アニータの胸が、ふわふわと上下動するようになった。彼女は、死の淵から生還し、自力で呼吸することを再開したのだ。

 男は、安堵の息を吐き、手の甲で額を拭うと、羽衣のことを鋭く睨み付けたのだった。

「見たか! スキサメトニウムの効果は、五分もすれば切れるんだよ! 医者を舐めんじゃない!」

 いったい何を威張っているのだろう。そのくらいのことは調べればわかるし、当然、羽衣だって把握しているというのに。

「どうして、こんなことをした? アニータのことが、そんなに気に入らないのか?

 あの女が自殺した今、父さんは独身で、後ろ暗いことなど一片も無いんだよ!」

 なんだ、お母さんが生きてた頃は、ちょっとは後ろ暗かったの?

 羽衣は、そんなふうにも思ったが、口にしたのは別のことだった。

「アニータとは、結婚できるものならすればいいよ。私はただ、また人を殺してみたかっただけ。十四才になったら刑事責任が発生してしまうから、今夜が最後のチャンスだったんだもの」

 十三才のうちに済ませてしまえば、犯罪にはならない。将来、なりたきゃ医師にもなれる。前例だってあるのだから。

……だと?」

 父は、訝しげに目を細めた。

「ねえ、お母さんは自殺だったって、今でも思ってるの?……医者のくせに」

 羽衣は、鼻を鳴らしたのである。もっとも、父だけでなく警察も自殺だと判断した。本当に、バカばっかりだ。

 不意に、父が咳き込み始めた。

「お父さん、人工呼吸する前に、アニータの口元くらい拭っておけば良かったね」

 羽衣は、諭すように言った。

 時間の猶予が無く、深い仲の女が相手だから、父はその工程を省略した。そう、悪いのは父なのだ。

「アニータの顔にたっぷりと掛けておいたのよ。薄力粉と、砂糖と……ピーナッツパウダー。

 キスの味はどうだった? お父さんは、ピーナッツアレルギーだよね?」

 アニータが顔から胸にかけて粉まみになっていたのは一目瞭然だったろうに、転倒した際のどさくさでケーキ用の粉末を被ってしまったくらいに考えていたのだろうか。

 父は返事をしなかった。みるみる顔色を悪くして床に崩れ落ち、咳き込み続けたのである……


 ゆっちんは、雨居留守から送られた動画を見て、金とピンクに染め分けた頭髪を掻き毟った。

「え!? ドッキリや〜いうネタバラシは? お母さん、プラカード持って出て来てくれへんだら、亡き者にされたままでっせ!」

 チャ〜ミンもまた、自慢の長い顎に爪を立てた。

「もう、カーテンコールでもええんやで!? この際、親子と美女で踊り狂うたらええやん! 俺の目に狂いが無ければ、ータもといアニータさんは、情熱的なサンバとかイケるはずや!」

 しかし、二人が乞い願うような展開は、ついぞ訪れはしなかった。

「俺らは何を見せられたんや……」

「俗に言う、スナッフフィルム……的な何か?」


「「狭い日本 人間辞めて どこ行くねん!」」

 二人は、声を合わせてシャウトした。もっとも、投稿者がウイルスと化したなら、世界を股に掛けて人類を呪うだけかもしれなかった。


 

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