第十話 名もなき殺人鬼(ネームレス)

「リサちゃん!」

 リサは立ちすくんでいた。足元に鞄が落ちているのに、彼女は動かない。動かない。動かない。

 かすかに、獣みたいな声が聞こえてくる。

犬の鼻息みたいな。それから、必死に助けを求めるようなか細い女の声も。

 なんだかよくわからない、「ぐちゃぐちゃ」って音も――。リサがぶるぶる震え出した。なのに、動かない。動けないのだ。

「警察に通報!」

 つみきが僕に携帯電話を押し付ける。僕は触ったこともないそれをあたふたといじくる。

「待って、何を」

「ちくしょう、遅かった――婦女暴行だ、はやく!」

 フジョボーコー。咄嗟とっさに漢字変換できなかった。

 戦慄わななく指で110。携帯電話を耳にあてて、僕は考える。

 えっと、なんだっけなんだっけあれ、やばいやつ。さっき聞いたやばい奴。あれを見せびらかして、なんとかっていう、えっと、えっと。ああ、そうだ――四辻寡不可よつつじかふか

「このやろう!」

つみきが声を荒らげる。リサの立ちすくむ場所へ走りよって、右側の路地の奥へと乗り込んでいく。

「子供に見せるもんじゃ、ねえんだよ!」

 男を一人引きずり出す。せ衰えてぼろを着てとても女の人を組み敷けそうもない、頭の禿げた男を。


「警察を呼んだ、四辻寡不可。お前の身元は割れてる」

つみきが四辻寡不可の胸倉をつかんで揺さぶる。

「お前のしたことの重さが分かっているのか、だぞ」

 四辻寡不可はべそをかいて泣いていた。かわいそうなくらい泣いていた。同情していいのか悪いのか、判断できなかった。

は、やっちゃいけないだろうがっ!」

 つみきは激昂げっこうしていた。僕にはわかる。つみきが怒るのは、被害女性のためだけじゃない。

 僕が慣れない通報をしている間、リサは呆然と立ち尽くしていた。その四辻寡不可の殺人能力がリサに働いているからなのか、何かに絶望しているからなのか、僕にはわからなかった。

 「その」現場を見なくてよかった、と思うのは、ひどいだろうか。ずるいだろうか。

 警察がきて女の人が保護されて、四辻寡不可が連行されていっても、リサはぼうっとしてそこに立っていた。

 つみきは警察に事情を話すために警察署に行ってしまったし……僕は立ちっぱなしのリサに声をかけた。

「……リサちゃん」

「あたし、」

「ねえ、リサちゃん」

「何もできなかった……」

 リサは僕を見なかった。見れないのかもしれなかった。僕はリサの手を引いた。

「ねえ、夜だよ。帰ろう。……帰ろうよ、あの部屋に帰って、マンガ読もう」

「――助けてって」

 リサはうつむいた。握った手に力がこもった。どれだけ引いても彼女は動かない――そして僕の手のひらを求めていた。

「あのひと言ったの。私の目を見ていったの。助けてって言ったの、何回も、言って、その、」

「……うん」

「あ、あたし、動けなかった、止められなかった、なんの、やくにも」

 地面に、一粒。何かが零れた。

「くやしい」

 リサは大きな目に一杯涙をためていた。続けて何粒も、何粒も、涙が落ちていった。彼女のまつげのふちから零れる涙はきれいで悲しい。

「知介、あたし、くやしい……」


 しょうがなかったんだよ、リサちゃん。僕らは子供で、大人の振るう暴力に立ち向かうことなんかできなかったんだよ、だってきみは、14才の女の子なんだよと、言うことはたやすかった。だけど、僕の中にはつみきの言った言葉が残っていた。

『リサは気負いすぎなんだよ――』


「うん、」

 僕はリサのくやしさを受け止めることにした。握りしめられる手が汗ばむまで。夜のとばりが落ちていくまで――殺人鬼を止められなかった「殺人鬼殺し」の涙が止まるまで。



※※※


 暗い終田おわりだ町の工場地帯を、逃げていく影がある。暴漢に破かれたストッキングのまま、女は逃げ惑っていた。

「もういや、痛いのは嫌、苦しいのも、いや……!」

「じゃあ逃げないでよ。終わらせるって言ってるじゃん」

 追いかける影もまた女性のようだ。女はナイフを月光にきらめかせ、彼女を袋小路まで追い詰める。手慣れた様子だ。まるで何度もここに誰かを追い込んだことがあるかのように、彼女はに慣れていた。


「もう嫌、もうやだ、やだ、やだよう」

「だからぁ、それを終わらせてあげるってば」

「こないでよ、こないで、こな」

「はいっと」


 鋭利なナイフが女の喉を切り裂く。悲鳴は空気に溶け、その体は無に帰した。月の影に隠れた雲が、女の姿を照らし出す。サバイバルナイフを仕舞った女は、くっきりとした月光の下で明るく言った。


「ま、あなたが終わっても、わたしはまだ終わらないんですけどね!」




第二章「尊厳殺し」了

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