第四話 肉飼野球 (にくかい・のぼる)


「お、しろーすけ」

 三限目の終わりころ、ようやく平衡感覚が戻ってきた僕は、四限目の前にクラスに顔を出す。と、現代文の教科書を机の上に出している野球のぼるに声を掛けられる。

「昨日の事故の後遺症で昏倒したって? もう大丈夫なのか」

 なるほどそういうことになっているのか、と納得しながら、僕はわざとらしくため息をついて見せた。

「不幸な事故だったよ」

嘘ではないから、罪悪感はまったくない。

「その顔のガーゼも、名誉の負傷ってか」

「そういうこと」

ノボルは僕の幼馴染だ。野球という字に反してサッカーを得意とするこの男は、帰宅部ながら地域のサッカー・クラブチームに所属していて、サッカーの大会でもそこそこの成績を残している。背も高いし、瘦せてるし、スタイルがいいから女子からの人気も高い。本人は全くそうしたことに興味がなさそうだったが。僕は、ノボルにひそかなファンクラブがあるらしいことを知っているが、ノボルには絶対に教えない。絶対教えない。

 大人気のくそやろうのノボルは、何も知らずに教科書を開いたり閉じたりして遊んでいる。

「そういや今日から『少年の日の思い出』だっけ?お前の好きなやつ」

 ノボルが言った。僕はノボルの机のはしに腰かけて、頷いた。

「――”そうか、君はそういうやつなんだな”」

 僕は、教科書をもらったらすぐに端から端まで目を通す。特に国語は、真っ先に目を通してしまう。その時から目をつけていたのだ。『少年の日の思い出』。

「そのセリフ、言いすぎ」

 ノボルは笑い、時計を指さした。四限がはじまる。

 僕は自分の席まで走って、スクールバッグからノートと教科書を取り出し、ペンケースを探したが、見当たらない。

「あれ、ペンケース……」

 家に忘れてきたか? 僕は何度もペンケースを探したが、やはりない。どうしようかとあたりを見渡したところで、隣の席から声がかかった。


「シャーペンと消しゴム、貸すか」

「ああ、うん! ありがとう」


 僕はからペンと消しゴムを受け取った。使い込まれて剥げたピンク色のシャープペンと、やっぱり使い込まれてチビた消しゴムだ。でも、ないよりありがたい。

 国語の教師が入ってきて、予鈴が鳴って、授業が始まる。――そうしてから、僕ははたと気づく。隣の席の男子は不登校でしばらく学校に来ていないこと。今も、隣の席は空席なこと。

そしてリサは、どういうわけか早退していたこと。

 「殺された」のは、平衡感覚だけじゃなさそうだ。僕は授業に全く集中できなかった。



「久しぶりに一緒に帰らねー?」

ノボルから誘いがかかったので、僕は頷いて彼の少し後ろを歩く。

「前はこうやって一緒に帰ったのにな」とノボルが呟く。「いつの間にか……」

「僕はいつだってフリーだよ?」と僕は言った。別に距離を置いたつもりはない。ノボルのことは友達だと思ってるし、幼馴染だと思ってる。

「だってさ、ほら」ノボルは苦々しい顔で振り向いた。「兵器つわのきさん、いるじゃん」

「リサちゃん?」

「俺あの子苦手。……苦手っつーか、なんつーか、関わりにくい感じする」

「……そうなんだ」

 確かにリサは物事をずばずばというし、外向きには若干クールなところがある。でも僕はそれ以上にリサの可愛かったり素敵だったりするところをたくさん知っているので、それを聞いたところで何も思わなかった。

「兵器さんといる時のお前見てるとさ。お前が遠くに行っちゃったカンジしてた」

「そんなわけあるか。僕はここにいるよ」

「そうだよな、……あ」

 ノボルは何かを言いかけ、顔をぐっと斜め後ろへむけた。僕もそちらをみた。公園。吊前つりさき公園だ。ブルーシートハウスが形成され、そこにホームレスたちがたむろしている。その中に、あきらかに若いおねえさんがいて、おじいちゃんたちとにこにこ話をしていた。二十代前半くらいだろうか。浮いている。

「なあ、なあ知介」

「ほんとに、おまえ、懲りないなあ」

 僕がノボルファンクラブとノボルの間を取り持たない理由がこれだ。ノボルはハイスペック中学生のうえ、おっぱい星人なのだ。きっと前世はおっぱい星人かスケベおやじだ。このスケベ野郎にファンクラブだって?何か間違ってる。

「すごくねえ?何カップに見える?」

「知らないよ。聞いてくれば」

「聞いたら意味ねえんだよ、当てるんだよ」

 ノボルの美学については聞き流しておく。僕はノボルが夢中になって見詰めているおねえさんの顔を見て――強烈な既視感を覚えた。既視感、っていうか、どこかで会ったような気がする。なのに、どこで会ったか思い出せない。まったくわからない。でも、思い出せないと思うほど、何かが引っかかる。


「ねー! 少年たち!」

 僕とノボルの二人で熱い視線を送っていたのがばれたらしい。おねえさんはたゆんたゆんとおっぱいを揺らしながらこちらへ近づいてくる。白いトップスにデニムというシンプルな格好なのに、スタイルがいいせいだろう、美人だ。

 いや、リサのことを忘れたわけじゃない。リサは最高に可愛いし、綺麗だ。このおねえさんは別方向に美人なのだ。断じて比べるものではないし、断じてこのおねえさんよりリサが劣っているとかそういうことではない。おっぱいがあろうとなかろうとリサは可愛い。

「ひょっとして暇なの? あたしも暇なの。遊ぶ?」

 ノボルの目はめちゃくちゃ輝いている。でも僕は、「帰る途中なんです」と言った。

「そっか、残念だな」

「今度暇なときに遊びませんかっ」

 前のめりなノボルが声をあげた。やっぱりこいつはおっぱい星人だ。暇なんてあるのかよ、サッカークラブはどうしたんだよ。

 おねえさんはそんなこと知らずににこにこしている。やっぱり美人だ。リサと別ベクトルで。

「いいよー。いつでも。君たち名前は?」

「ノボルです! 野球って書いてノボル! でも得意なのはサッカー!」

「知介といいます」

「なるほど野球くんと知介くんね。あたしは……あたしは、そうだなぁ」

 おねえさんの瞳の奥を何か暗いものが過ぎった。でも一瞬だった。光の加減かもしれないし、僕の見間違いかもしれない。彼女は、僕の目を見つめて、名乗った。

。――ドゥ子だよ、よろしく」


 

「知介、いる?」

 その晩、リサは僕の部屋の窓をノックした。いつも通り「開いてるよ」と答えると、少女がえいやっと窓枠を乗り越えてくる。僕は目をまるくした。

「リサちゃん、前髪伸びた?」

「うん」

 彼女はあきらかに常より長い前髪を見せた。「後ろもちょっと伸びてるけど、まあ許容範囲かな」

「どうして?」

 彼女は可愛い口から衝撃的な発言をした。


「あたしも、殺人鬼だから」


 少し長くなった前髪を手でつまみ、僕を見つめる。


「ついさっき、をしてきた。その代償が、これ」


「うそだろ」

「うそじゃないよ」

 リサはつづけて、平然と言い放った。

「殺人鬼・平衡殺しは、。もう大丈夫」

 僕は言葉を失った。





第一章「平衡殺し」了

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