第77話 怨恨の「かごめかごめ」

「この顛末には当時の複雑な国際情勢が大きく関わっているのですよ。今日における通説では、蘇我氏が豪族を中心とする古代合議制を死守しようとし、律令制度を整えようとした中大兄皇子と中臣鎌足はそれを打破しようとしたことになっていますが、それは違います。


 唐や新羅と交流を持っていた蘇我氏は、むしろ律令制度には賛成の立場でした。いずれにしても天皇の外戚となれば高位高官を独占できるからです。


 しかしこれを覆したい男がいました。そう、新羅に国を奪われた百済の皇子、豊璋、偽りの名を中臣鎌足という男です。彼は出自を偽り、中臣を名乗り、唐や新羅を支持する蘇我氏を倒したいと思っていたのです。そして蘇我氏の精神的バックボーンである聖徳太子一族をね。


  己が出自である百済を支持する政権を打ち建て、そしてゆくゆくは百済の王に即位する。これが鎌足の仕組んだ企てだったのです。


 ところが豊璋として参戦した彼は、またもや日本で犯した同じ過ちを繰り返すことになります。すなわち、百済軍で人望の厚かった将軍、鬼室福信を妬みから惨殺し、そのために軍の士気を貶めたのです。


 その結果、百済の軍は戦略を描き、ついには白村江の戦いで敗れるのです。帰国した彼は何食わぬ顔で内大臣として政権の中央に返り咲きます。そしてその権力は息子である不比等に引き継がれるのです。


 ところが不比等の4人の子供は、疫病に罹患して次々に急死します。一族の者たちは、これは聖徳太子や山背大兄皇子、ひいては蘇我一族の祟りに違いないと囁きます。そこで夢殿と救世観音像が建立されることになったのです。


 不比等には娘がいました。かの有名な光明子、光明皇后です。聖武天皇の妃であった光明子その人は、人徳が高く、藤原氏が過去に行った悪行を何よりも悔いていたのです。


 彼女は天皇とともに大仏を開眼し、聖徳太子が昔開かれた悲田院、施薬院を再建しました。そして太子と同じように感染症に罹患した貧しい者の体を、自ら清潔な水で拭いてやったといいます。それは自らの一族が行った悪行に対する精一杯の償いだったのです。


 乙巳の変の後、蘇我宗家は滅び、唯一、中大兄皇子側についた蘇我倉山田石川麻呂も嵌められて死罪となりました。そして石川麻呂の子孫たちは下流貴族となり果て、歴史の表舞台から消え去っていったのです。


 落ちぶれた者たちの中には、市井の物売りや托鉢僧となったものもいました。そして自らの出自に誇りと恨みを抱え続けた者たちは、童歌を作りそれを京の都の辻辻で子供たちに教え、歌わせたのです。


かごめ、かごめ、  かごのなかのとりは

いついつでやる。  よあけのばんに

つるとかめがすべった、うしろの正面だーれ、


と。


 かごのなかの鳥とは、あの乙巳の変後、蘇我宗家が襲撃された後、罪人の乗る籠で刑場へ引き立てられる蘇我の家人たちです。夜明け、とは朝方、三韓の使節に対する儀式の朝のこと、そしてばんとはそこで番をし、見張りを立てて様子を伺う中臣鎌足のことです。つるとかめとは、朝廷の頂点にいたつる、皇極天皇と、かめ、蘇我入鹿のことです。彼らは見事に頂点から「すべった。」そして後ろの正面にいる鬼とは、


中臣鎌足、その人なのです。


 平安時代、藤原の貴族たちが牛車で都大路を通りかかる時、どこからともなくその童歌が聞こえてきて公卿たちの心胆を寒からしめたのです。


 これが蘇我一族と聖徳太子一族のをめぐる悲劇の真相であり、歴史は後世為政者の都合の良いように書き換えられ、今に至っているのです。」


つづく




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