第72話 日本史最大の闇 (7)ー闇に消される者たち

 当時の日本には大陸から渡ってきた技術者や、文人、僧侶も多く暮らしていました。当然新羅や百済など、反目し合う国々からの民も多かったのです。


 豊璋が刺客に狙われず安全に暮らすには、身分を偽る必要がありました。そこで彼は百済と縁のある中臣御家子の養子となり、鎌足と言う名前をもらったのです。百済の義慈王ぎじおうの子豊璋が来日したのは、舒明3年、西暦631年、そして13年後、彼は鎌足として神祇伯じんぎはくという官位に任命されるのです。


 その後、唐と新羅は連合軍を編成し、百済を滅亡させます。百済の将軍、鬼室福信きしつふくしんは百済再興のため半島に残り反乱を起こすのです。豊璋、即ち鎌足は乙巳の変と大化改新の勲功を欲して、大織冠を中大兄皇子に要求します。自らが百済へ帰り戦死したとしても、日本における一族の栄達が保証できることを望んだのです。


 そして大織冠を授与されると、再び大陸へ渡ります。しかしそこで待ち受けていたのは、苦労人で愛国者の鬼室福信が誇る人望の高さと、それに反して日本に亡命していた豊璋への嘲りでした。そこであろうことか、皇子という出自を笠に着て、鬼室福信を捕らえて斬殺したのです。


 蘇我入鹿を殺害したばかりか、救国の英雄まで手にかけるとは恐ろしい限りです。これらは皆、私が猫の嗅覚であちこちをかぎまわり集めた情報です。人間は当時、皆騙されていたと言えるでしょう。


 知将であり人望の厚かった鬼室福信を失った百済の軍は戦意を喪失し、戦略を欠くようになります。そして天智二年、西暦663年、百済は大和朝廷の援軍を受けて戦いながらも、白村江の戦いで敗れ、滅亡するのです。中国の正史である三国史記に曰く、「豊璋は白村江で軍を離脱するも行方不明」とあります。


 豊璋が参戦してから離脱する期間、それはちょうど藤原鎌足についての記事が「日本書紀」に欠けている時期とピッタリと付合するのですよ。自らがシナリオを描き、中大兄皇子を伴って実行した偉業である筈の大化改新で後でさえ、鎌足には内大臣と言う官位しか与えられていません。本来なら、右大臣、左大臣まで昇進すべきところをなぜなのでしょう。


 やはり朝廷内には彼の出自について怪しむ者がいたことを窺わせます。何度も言いますが、この時代大陸からやってきて、日本の地で生計を立て、立身出世していこうと思っていた人々は多くいたのです。


 しかし、鎌足のように出自を偽り、陰謀を図り、母国においてさえ愛国者を斬殺した者には、事実を覆い隠すことができないのです。どこからともなく事実や風評は伝わって行くものなのですよ。他の豪族たちが反発するのは目に見えています。


 そんなこともあり、鎌足は乙巳の変の真相を知っている有力者を消そうとするのです。あの三韓使節来訪の折、上奏文を読み上げながら暗殺のタイミングを見計らっていた蘇我倉山田石川麻呂は事件後右大臣に就任しますが、やはり鎌足にとっては目障りになっていたのです。味方につけたとは言え、やはり蘇我の一族、いつ自分に歯向かうやもしれません。そう思った鎌足によって、石川麻呂は無実の罪を着せられ、死罪に処せられたのです。


 そして山背大兄皇子を殺害に向かった実行者である巨勢徳太こせのとこたはなぜか左大臣と言う要職に就くのです。こちらのほうは懐柔といっていいでしょう。蘇我氏でないならば、他の豪族からの反感を防ぐことができたのでしょう。」


つづく

















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