第60話 七百猫の過去世(2)

 上杉の戦法はと言うと、「車懸りの陣」という。兵を渦状に配し、戦闘に当たる兵士が次々に前へ出て波状に攻撃していく戦法よ。台風のような上杉の猛攻に武田は耐えられず、破滅寸前の危機的な状況にあった。


 おまけに信玄公の弟君であった信義様や、頼りにされていた軍師の山本勘助殿も次々と討ち死にされた。しかし、なおも信玄公ひとりはどっかと床几に座り、黙想しておられた。わしは床几の下で、もはやこれまでと震えておったのじゃ。


 その時じゃ、駿馬に乗った一騎の武者がなんと信玄公めがけて駆けてくるではないか。白手ぬぐいで頭を包み、太刀をかざして一目散に駆けてきたのは謙信その人じゃった。そして謙信は「やあっ」という高らかな気合いと共に、信玄公に対して三度に渡って斬りつけたのよ。


信玄公は素早く床几から立ち上がるや否や、軍配で三度に渡ってハッシと受けられた。


「信玄敗れたり。」


大音声でそう呼ばわると謙信は颯爽と駆け去って行った。


「謙信、天晴れ也。」


信玄公は声低くそうおっしゃると、床几にまたどっかと座り直したものよ。


「流星光底、長蛇を逸す」


頼山陽の一節じゃ。


流星の如く煌めく謙信と、大蛇の如く泰然とした信玄公、あの場面は今も我が目に焼き付いて離れぬ。お二人は正に戦国における名将中の名将じゃった。


 お館様はわしを床几の上に引き寄せ、御胸に抱かれると、慈しんで下された。


 「七百しちももよ、わしの側を離れず、ようも側に最後まで付いていてくれたものよ。」とな。


わしもお答えして言った。


「この七百猫、本日のことは終生忘れませぬ。」

とな。


 信玄公は強いだけでなく、実に慈愛に溢れた懐の大きい武将であられた。三方原で家康公を追い詰められていた時も、首まで取ろうとはなされなかった。家康公は三方原で惨敗し、九死に一生を得て、浜松城に逃げ帰って来たのじゃ。そして僅かに残った手勢で浜松城を開門された。


 無学な武田の荒武者たちはこれを見て嘲笑った。


「家康よ、降伏したのか、愚か者。あはははは。」とな。


 しかしこれは世に言う「空城の計」を窮余の一策とした家康公の賭けじゃった。中国の三国時代、蜀の軍師、諸葛孔明は魏と戦って大敗し、城に戻って城門を開け放った。敵に油断させ、敢えて城門内に引き込み、四方から囲って殲滅せんとする妙手じゃ。


甲州軍学の泰斗であられた信玄公は百も承知よ。馬上でその有り様をご覧になってわしを手元に抱え、こうおっしゃった。


小童こわっぱ、やりおるではないか。空城の計とは軍学を学んでいる証拠ぞ。殺すに惜しい。よいか家康よ、後世、役に立つ武将になれ。者ども、家康を生かしておいてやろうぞ、わっはっはっは。」



 高笑されると軍を引かれ、浜松城を後にされたのじゃ。わしはな、この時ほど「将の器」というものに心から打たれたことはなかった。


つづく


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第60話までお読みいただき、ありがとうございます。ご意見やご感想などございましたらお書きくださいませ。ストーリーテラーとして、ますます面白いストーリーにしてゆきたいと願っております。

♡いいね、や評価などもつけていただけましたら光栄です。

今後もよろしくお願い致します。


著者  現代アーティスト、作家志望。山谷灘尾 


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