第59話 七百猫の過去世 (1) 

 「それでも、わしは過去世において、この目で直に見れてよかった歴史上の大事件を目撃し、その人物のそばに居られて本当に良かったと思える瞬間が度々あった。


 時は、戦国時代じゃ。わしは武田信玄公に飼われておった。信玄公のお側にはな、軍師山本勘助や、猛将馬場信房など優秀な部下が数々おり、武田勢は甲斐国を超えて、たちまちのうちに信濃一国を平定していったのじゃ。


 ところが北信濃まで攻め入った信玄公の勢いに脅威を感じていたのが越後の覇者、上杉謙信よ。北信には村上義晴が葛城城に立て籠もり、武田の進軍を阻んだ。信玄公はこの城と塩田城も落城させると、謙信はたまらず軍を南下させ、本格的な戦となったのじゃ。世に言う「川中島の戦い」じゃな。


 川中島と言うのはな、北信の長野盆地、千曲川と犀川が合流するV字デルタ盆地よ。米や麦が多く穫れ、信濃を富ませる土地じゃ。


 信玄公は千曲川のほとりに海津城を築き、謙信を迎え撃つ準備をした。それに対して謙信は善光寺に参拝し、陣を整えると兵一万三千を率いて海津城に相対する妻女山に陣取った。武田方は千曲川を挟んだ塩崎城に兵を向け、妻女山の謙信を挟撃しようとした。


 更に信玄公は山本勘助と馬場信房を将として軍を二分させた。馬場の別働隊が謙信を妻女山に攻め、謙信を誘き出して、山本勘助が率いる本陣がこれを突く。そして背後から馬場の別働隊が挟撃し、これを殲滅するのじゃ。啄木鳥が嘴で木を叩けば虫が飛び出て来よう。それを突くことからこれを「啄木鳥戦法」という。


 信玄公は鶴翼の陣を敷き、上杉軍一兵たりとも逃さじと虎視眈々と狙っておった。ところがじゃ、信玄公と並び称される用兵の天才謙信はこの時ばかりは一枚上回っておった。斥候を放ち、武田軍が二手に分かれたことを察知した謙信は、あろうことか夜陰に乗じて妻女山から軍を密かに降ろし、千曲川を対岸に渡らせたのじゃ。


 武田方にそれとは悟られぬように兵も馬も一音も立てさせず、川面に起こる水音さえ消滅させ、まるで亡霊の如く静謐に河を越えさせ武田の虚を突いたのよ。


 信濃は盆地、然も千曲川と犀川が合流する湿地じゃ。夜明けまで濃霧に覆われ、一寸先も曇って武田の兵は誰しも進軍渡河に気づかぬ。やがて陽が東天を明からしめ、濃霧が上天に散じた時、武田はいる筈のない上杉軍を忽然と見て、鬼神を見た如く慌てふためくこととなった。一気に形成は逆転よ。


 江戸後期屈指の漢学者、頼山陽はこの史実を漢詩「川中島」でこう詠んだ。


 「鞭声粛々夜河を渡る」 とな。


 わしも信玄公のお側で震えが止まらぬ程慌てふためいておったのじゃが、なおも信玄公ひとりは床几にどっかと腰掛け、次つぎと指示を出しておられた。鶴翼の陣を立て直し、敵方を包み込むようにして応戦しようと命じられたのじゃ。


つづく


 


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