第58話 「七百一回目のプロポーズ」(2)



 もちろん、他の青年たちには、猫の鳴き声にしか聞こえない。


「そうだ、私がリーダーだ。」


また違う若者が問う。


「同志、頭がおかしくなられたのですか?」

「何を言う、私はいつも正常だ。私を侮辱した罪で党の革命委員会に報告してやろうか、同志。」

「あ、い、いいえ、出過ぎた発言を。」


 七百猫はなおもピアニストの両手の上に座り、女性革命家に問う。


「君は、少しは話がわかる人だと見た。偉大な歴史を背負う中国人だろう。恥を知れ。孔子や論語を学んだ事は無いのか。」

「あるさ、それがどうした。あんな封建時代の思想は現代では弊害しか生まない。」


「そうだろうか、論語の中の言葉を知らぬか。


己の欲せざる所、人に施すこと勿れ、とある。


孔子の言葉は現代では通用しないものもあるが、多くの言葉は今でも普遍性を持っている。そのくらいのことが君のようなインテリが理解できんのか。」

「ふん、小賢しいことを。なぜそのようなカビの生えた言葉を知っている?」

「猫には七生あるという諺を聞いたことがあるだろう。」

「ああ。」

「私はその七生を百回繰り返すつもりで生き返り、今が六百九十九回目なのだ。これまでの人生はずっと隣国の日本で送ったが、六百九十八回目からは中国に来たのじゃ。」

「と言うと?」

「日本が明治維新で開国して、私は神戸の港からイギリス船に乗ってこの上海に来たのよ。そして私はその頃、民族資本を興した実業家に飼われ、清朝末期の重臣李鴻章に紹介された。李鴻章は私の言葉が理解でき、私が四書五経を全て誦じていることを理解したのよ。そして…、」


「待て、その話は聞いたことがある。君は清朝末期に猫として初めてわが国の科挙に合格し、進士登第を果たした七百猫チーパイマオ。日清戦争の講和条約締結に当たり、李鴻章の補佐猫として下関条約に調印を…、」


「同志、やはり気が狂われたのですか。」

「待て、待てと言ったろう。この猫は私にだけわかる言葉で話している。あと5分だけ私に時間をくれ。お願いだ。」

「そうだ、私の名は七百猫チーパイマオ。この国がある時代から衰弱し、民衆が苦しみ、列強が侵食していくのをこの目で見てきた。そして、君たちは、新しいリーダーのもと、中国を解放したかに見えたが、その共産党もやはり中国古来の王朝と何ら変わることがなかった。


 いや、君たちを狂信者者集団に仕立て上げた点でもっと悪質かもしれない。」

「と言うと?」

「私には見えるのだ。あと半世紀もすると、この国は間違いなく変わる。この上海にも、北京にも、ニューヨークや香港のような高層建築物が立ち並び、街には自動車が溢れ、人々は楽しくデパートで買い物を楽しんだり、外食しているのがな。だから今のようなこの狂乱は無駄なことだ。」

「共産主義が崩壊すると言うのか?」

「いや、そうではない。少しはマシになるのさ。人民が今より目覚めてな。君はきっとこの連中よりは外国のことも知っているだろう。留学もしているはずだ。東ドイツか、ソ連モスクワあたりか。」

「そうだ、モスクワ大学で物理学を専攻していた。」


「共産圏とはいえ少しはヨーロッパの空気を吸ったのなら、このピアニストを痛めつける意味がわからないのか。」

七百猫の声は大きく響いた。


女性革命家は黙ってしまった。


「行くぞ。」


女性は周囲の者たちに呼びかけた。


「良いのですか、こいつを…、」

「私の命令だ。今日の行動は終わりだ。何かあるのか、同志。」

「い、いいえ。」


女性は踵を返すと階段を上っていく。集団はどやどやと後に続く。残された老婦人はうつぶせになった青年の肩を抱き、泣き始めた・・・・・。


画面がフェイドアウトする。高木はラップトップを操作してパワーを切る。七百猫はベッドの上で丸くなり、じっと目を閉じていた。


「花田殿、これが前々回のわしの生涯じゃ。わしは幸福な生涯を送ろうと心に決めておったのじゃ。ところが、ところがじゃ。最後になる筈の七百回目はもっと悲劇に見舞われるとは。もう一度、もう一度だけで良い。あの世に帰り、もう一度だけ、今度は幸福な生涯を送りたいのじゃ。たったもう一度だけでいい。」


つづく





 

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