第52話 徳川家康ー諦めない心のレッスン(2)
「花田殿はこの後、単身で戦さに赴かれるということじゃが、討ち死にも覚悟の上か。」
「はい。」私は手短に答えた。
「敵は相当強いと聞く。天晴れな心がけよ。それでこそ神になる資格を持った方じゃ。
本日は、私が辿った幼少からの話をしてそなたの決心を固め、戦さの手掛かりを与えるのが私の務めと聞いた。時折何か訊きたいことがあれば話に割って入り、遠慮なく訊くがよい。それでは話そう。
わしは戦国乱世の真っ只中に、三河の領主松平広忠の子として生を受けた。当時三河は小国で周囲を強敵に囲まれておった。東には駿府の今川義元、西には尾張の織田信秀、そして北には恐ろしい武田信玄じゃ。
一時も油断はできず、他国から攻められたら一族郎党討ち死にも覚悟の上であった。しかしそんな中でも三河武士は何とか生きながらえよう、領国を死守しようと、もがき続けたのじゃ。
わしも故あって父母と早く別れてしまった。まず我が三河は、駿府の今川義元と和議を結んだのじゃ。母親の伝通院は刈谷の城主、水野忠政の娘であった。ところが忠政は織田方に付いてしまったのじゃ。父広忠は今川に忠義を尽くすため、母を離縁し実家に帰してしまった。だが、それから暫くの間、わしは岡崎の城で平和に暮らしておった。
4年後尾張の織田信秀が突然三河に攻め込んできおった。それで父は今川に援軍を要請した。義元は援軍との交換条件として人質を差し出すように求めてきた。乱世の習い、義元も己が安心を得んがため、これは仕様のないことだったかもしれぬ。
そういうわけで、わしは6歳で今川の人質になるため、戦いの陸地を避けて、海上を駿府に向かった。ところがじゃ、戸田康光という武将の家来たちが船頭に扮して船を操り、わしは思いも掛けず、敵国尾張に連れていかれたのじゃ。
戸田は我が父に、息子を預かったから織田方に付くようにと脅してきた。ところが父は今川との盟約を守るためきっぱりと断り、わしの命を戸田に委ねたのじゃ。これはひとつの大きな賭けであった。いくら戦国の乱世とはいえ、幼児を殺す所業は信義に悖ること。周辺の武将からどんな悪評を下されるかも知れぬ。
結局、織田信秀が仲介に出てきて、わしは岡崎へ帰ることができた。その後、織田との戦となり、今川の援軍を得ることができた。しかし織田方との人質交換で、わしは、結局今川義元の人質となったのじゃ。
3歳で母とは生き別れ、ほどなく父と死別し、6歳で戸田の人質となり、8歳で今川の人質となって他国へ行く。わしの人生は、幼き頃より砂を噛むような思いに満ちた苦難の連続であった。しかしな、わしは決して望みを失わなかった。
いつか母国へ帰り、一廉の侍大将になって領国三河を守らんと欲す、とな。」
つづく
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