第31話. 菅原道真ー「神様と怨霊のレッスン(3)」
「あなたも前世で人から尊敬を受けていた料理人と聞いています。きっと様々な課題があったとしても乗り越えられますよ。」
道真公は私の目をじっと見ていた。私は全身に力が湧いてくるのを感じた。彼はゆっくりと自分の波乱に富んだ生涯を語り始めた。
「私は藤原氏が権勢を誇っていた9世紀に学者の家に生まれました。若くから学問が好きで、そのために朝廷から重く用いられるようになりました。特に藤原氏の権勢をよく思っていなかった宇多天皇の御代になってからは出世も速くなりました。
そしてついには遣唐大使にまで任ぜられることになったのです。ところが当時強大だった唐の国は力が衰え、混乱を極めるようになっていきました。そしてついに唐が滅亡したため、遣唐使は中止になったのです。
私は唐滅亡の前に、遣唐使の再検討を求める建議書を朝廷に提出していました、そういうこともあって私の評価はいっそう高まりました。そして私はついに右大臣と言う要職に就きました。
私は自らが学者を排出する家系の身であり、また藤原氏の手前、政治的要職に就くことは固辞したのですが、帝は藤原氏を牽制するために私をどうしてもと引き留めて、ついには任命の運びとなりました。
左大臣に任命されたのは藤原氏の直系である時平です。よく後世の歴史家は、時平と私が反目し、彼の反感から私が失脚したように述べています。しかし事実は決してそうではないのです。
実際、私の父、
話をもとに戻しましょう。宇多天皇は醍醐天皇に位を譲った後も、私をはじめ他の数人の貴族たちと新政権に対してさまざまな提言をしていらっしゃったのです。ところがそれをよく思わない貴族が一定数おり、朝廷内は宇多天皇派と醍醐天皇派の二派に分かれて権力闘争の模様を呈していったのです。
その中で私を含む宇多上皇派が醍醐天皇を退位させ、私の娘婿である親王を帝位に就けようとしているという風説が流れました。それで天皇派は対立する派閥の中心であった私を左遷し、太宰府に流刑にしたのです。
時平はたまたま対立派閥の中心にいたので、私の左遷と流罪をやむを得ず承認したということなのですよ。これは「昌泰の変」と呼ばれ、私が失意のうちに太宰府で絶命した後、まず時平が39歳で急病により死去しました。その後、朝議中、御所清涼殿に落雷し、多くの貴族が死傷したのです。
これらは私の怨霊がなせる災いと考えられました。それで朝廷は私の名誉を回復し、死後右大臣に復位することができました。神道において神を祀ると言うことのひとつの要因として怨霊を鎮めるということがあります。そのため、私は北野天満宮、続いて太宰府天満宮に神として祀られ正一位の位もいただいたのです。
つづく
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