第24話 神様と人間の関係ー黒田の講義


「さっきシュレネコが話をしたマルチン・ルターのキリスト教の解釈、それをも否定したのかニーチェです。」


 黒田はいつものように冷静に話し始めた。


 「確かにキリスト教においてひたすら信仰することで救われるという解釈には一定の説得力がありました。しかし、その後のヨーロッパ社会において、科学や機械文明の発展、それを悪用した大量殺戮を行う戦争が起こり、神の救いというものに疑いをさし挟む人々が多く生まれてきたのです。


 あるいは、資本主義の発展とともに、経済的格差が生まれ、信仰では救われないのではないかとという疑いが強くなってきました。このようにして、西洋において、キリスト教の神は死を迎えてしまったのです。


 ニーチェは、人々が抱くこのような絶望や満たされない思いを「ルサンチマン」と呼びました。そして、ルサンチマンに基づいて享楽的な行為にふける人を「末人」と呼んだのです。


 それではルサンチマンを克服する方法はあるのでしょうか。それをニーチェは「力の意志」と呼びました。たとえこの世界が未来永劫に同じような無惨なことを繰り返しても、この一瞬一瞬に自分の全てをかけて自己の向上を目指して生きていくことです。そしてこのように処していける人を「超人」と呼び、従来のキリスト教徒と対峙したのです。


 ありきたりの価値観や、誰かが作った世界解釈より、もっと意味があるのは、この世界そのものです。それを受け入れ享受することが人生にとって意味のあることだと考えたのです。


 例えば、朝起きて、太陽の光を浴び、太陽の暖かさを感じる。鳥の鳴き声に耳を済ませ、それを楽しむ。川のせせらぎを聞き、そして冷たい水に触れ大自然を感じる。そこにみなぎる「力」。しかしね、考えてください、花田さん。これこそ、日本が発展させた神道の考え方じゃないですか。

 

 神道の起源はこの大自然に対する畏敬の気持ちです。そして、大自然の畏るべき力が神なのです。だから大きな山や、滝や川の流れを人々は、神として崇め、それを自分たちの村や氏族を守るシンボルとして神社を建てました。鎮守様と言うのは、もともとそのような氏族や村落を守る自然神なのです。


 そして、人々は、そのような自然のパワーを敬うため、村落においてお祭りをするのです。お神輿と言うのは自然の荒れ狂うパワーを鎮めるため、年に一度だけ人々がそれを激しく揺れ動かして神様にそこに乗り移ってもらい、災害を起こす代わりに、お神輿に乗ってパワーを解放させていただく儀式なのです。


 時代が進み、人々は自然だけではなく、怨念を持って亡くなっていった歴史上の人物にも畏れを感じ、そのような怨念のパワーを鎮めるためにも神社を建てるようになりました。そして、そのような人々の怨念のパワーをお神輿に乗せて、解放させてあげたのです。


 あらゆるものには、霊性があり、その霊性こそが神様だ、というのが神道の考え方です。ただ、地域の人々に受け入れられ、畏敬の念を持って接していただかなくては、神様とは言えません。


 花田さんがこれから取り組まなければいけないことは、地域の皆様に溶け込み、畏敬の念を持って祀っていただく存在になるということなのです。」


 私は、神道と言う宗教がこれほど深いものであることを初めて知った。そして、自分がもっと勉強しなければ立派な神様になれないであろう、と改めて肝に銘じたのであった。



つづく

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