第17話  あの世はパラレルワールド、そして量子の世界。



「俺のことはシュレネコと言ってくれ。元シュレディンガーの飼い猫さ。」


 私は初めて聞く単語に戸惑っていた。しかし反面、何かワクワクする自分がいるのに気がついた。やっとこれで自分が「あの世」に来た感あるなぁ、と半ば幸福感も感じていた。


「エルヴィン・シュレディンガー知ってるか?」と猫は尋ねた。

「おい、そういうことはいいから、このお方にこの世のことを説明してくれないか。」

「高木、お前、この頃態度でかくなったよな。」


ネコのタメ口が余計に私を興奮させた。いよいよ「あの世ゲーム」に突入しているのだと感じられた。


「あのー、なんと呼ばせていただいたらいいんだっけ。」


と猫は前脚を舐めながら躊躇いがちに言った。


「花田さんでいいよ。」

「じゃぁ花田さん、量子力学って知ってるかい?」

「私は文系なんで、その辺はよくわかんないよ。」

「全く日本の学校教育ってさぁ、今の世の中に対応してねえんだよな、ったくよお。文系だの理系だの、片方がもう片方のこと全然ご存じないんだからな。」

「あの。」と私は割って入った。

「君のことはシュレネコくんと呼んだらいいのかい?」

「あーそれでいいよ。」

「じゃあシュレねこくん。」

「あ、あ、はい、なんでしょう?」


 シュレネコの戸惑ったような返事が可笑しくて、私たちは思わず顔を見合わせて笑った。高木もなぜかつられて笑っていた。


「高木さぁ、ったく、おめえまでつられて笑ってんじゃなねえよ。」

「うっせー、きったねえ真っ黒な猫のくせに。」


私たちは三人で心の底から笑った。ここへ来て、こんなにリラックスできたのは初めてだった。「あの世」とやらに来てこれだけ緊張感の連続だったのも意外だったが、それをこのシュレネコが打ち破ってくれたのも意外だった。それから聞いた話は今まで私が聞いたどんな話よりも想定外でエキサイティングなものだった。


 シュレネコは窓際にひとつ離れて置かれたソファーにちょこんと座ると前脚をゆっくり体につけて話し始めた。


「あのさぁ、この世界って無限に存在しているんだよな。君が今いる世界も、無数の世界のひとつに過ぎないわけさ。君は彼方にいる時、シェフだったそうだが、それはたまたまその世界にいただけで、別の君は大泥棒になって銀行を荒らし尽くしていたかもしれないし、ホームレスになって駅の地下道で物乞いをしていたかもしれない。ハハハ、ちょっと信じられないだろうがね。そういうことさ。だから今君は、この世界にいて、神様になろうとしているわけだけど、また別の君は違う天国とやらにいて、お花畑の中でお気楽に歌を歌っているかもしれないさ。あるいはもともと調理人だったので、別の世界でレストランを経営しているかもしれない。とにかく君は選んでこの世界へきたのさ。それが無意識的だったとしても。」


 私は全くちんぷんかんぷんでおとぎ話を聞かされているように、シュレネコをじっと見つめていた。


「ハハハ、みんなさぁ、最初この話をするとそういう表情になって何も言えなくなるんだよな。」


 シュレネコはもう一度私の顔をうれしそうに覗き込んでいた。大体猫にこのような人間っぽい表情があることすら不思議だった。私の興奮はいよいよ高まっていった。


「あのさあ、ヤングの二重スリット実験って知ってるか?」とネコは続けた。

「二重スリット実験?」と私は思わず繰り返していた。

「これだからなぁ、文系の奴らは物理も1までしか学習しねえしよ。大学でも一般教養の部類だからなぁ。ニュートンの古典力学までしか知らねーだろ。それすら忘れている奴が多いだろうし、ったくよお。」


シュレネコは、今度は高木の方を見下しているように見上げた。高木は視線を逸して窓の外を見ていた。

「まぁいいや、あのさぁ、昔、科学者が光の性質を調べるためにある実験をしたのよ。手前に光の粒、光子って言う奴だな。それを発射する装置を置いて、真ん中に二本の縦スリットが入った金属板を置き、後方にスクリーンを置いたんだよ。それでランダムに光の粒をスクリーンに向かって発射したんだけどどうなったと思う?」


 私は高校の教師に指名されたように少し緊張して答えた。


「そりゃ、二本の縦長の筋ができたでしょうね。」

「まぁ、普通はそう考えるだろうなぁ。ところがだな、スクリーンに残ったのは濃淡がついた波形を示す縞模様だったのさ。それでね。科学者は一つ一つの光の粒がどういう経路でスクリーンに到達するか調べたいものだと考えた。経路がわかるとどこで粒が波に変わるかわかると思ってな。


 科学者は今度はスリットの後に観測装置を置いて同じ実験を開始したんだよな、でどうなったと思う?」

「そりゃ同じような縞模様ができたのでしょうね。」

「ところがだよ。彼らが見たのは異常な光景だったんだよ。なんとスクリーンに映し出されたのは二本の縦筋だったのさ。」


 私はいよいよネコというより狐につままれたような気持ちになって、シュレネコの方をぼんやりと見つめていた。これは今私がいるこの異世界の話ではない。私が元いた前世で起こった実際の実験結果なのだ。私はこの不思議世界全体の中で自分が彷徨っているアリスのようだと思い始めていた。


「それでな。」とシュレネコは続けた。

「デンマークを代表する物理学者ニールス・ボーアはこう考えたんだよ。観測している人間側は、光の粒のようなミクロの世界と違う世界にいるんだと。そして二つの世界を分けて考えると人間側のルールじゃないものが説明できるとよ。


 光の波動は人間側が観測した瞬間に収束して粒の状態になると。光の粒を含む物質の最小単位を量子と言う。そして量子の性質は、人間の観測によって波動から粒に確定してしまう。これがデンマークのコペンハーゲンで発表されたので、量子力学のコペンハーゲン解釈って言うんだ。」


 私は頭の中が混乱していた。しかし、いよいよ不思議世界に入ってきたのでますますワクワクする自分がいるのに気がついていた。


つづく

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