第12話  栄光に満ちた過去


「もうやめてくださいよ、高木さん。ここの調査力は私がもう十分恐れいっているのだから。」

「いや、やめませんよ。あなたはとてもリスペクトすべきお方なのでね。大勢の弟子を抱えて、あなたは一人一人懇切丁寧に匠の技をご指導なさった。そして有為な日本料理シェフを大勢育てられ、何人かを独立させてあげた。


 そして一番弟子の国広さんには総合芸術である日本料理の哲学と教養を全てご指導なさった。今では彼が毎年のようにミシュラン三つ星をとっている。あなたはここ数年、国広さんに完全な自由を与えようとして、自らあの誇るべき名店、渓水茶寮を離れ、長野の山中にある小さな温泉旅館に住み込みの料理人としてお仕事をなさっていた。


 一介の板前としてね。仕事がひと段落した時に、温泉に入るのがあなたが一番幸せを感じる瞬間でしたよね、マロニエの小径とパリの早朝にカフェで出されるカフェオレの香りを思い出しながら、ね。そしてお布団の上げ下ろしをしながら宿泊客とお話しする瞬間がもう一つの楽しみでしたよね。


 料理本を出版されたあの編集者の方が泊まりに来られて、どこかであなたを見かけかったか、と尋ねられたときはピンチでしたよね。他人の空似でしょうなあ、私はずっとここで住み込みで働く爺さんなんですから、なんて答えられていたとか。



 誰にも告げず一切の情報を遮断なすっていた。あの旅館の料理長はあなたのことを知っていて、下働きに使うことに最初抵抗したんだ。でも、あなたは粘り強く説得された。表には立たず黙々と裏方を務めたいと。


 料理長の高潔な人格をあなたは見抜いていたんだ。それと何事も謙虚に学ぶ姿勢もね。そして出汁の取り方、料理の盛り付けから器の選定、床の間の立花など、ご自分の学ばれた教養を尽くして、人里離れたあの旅館の繁盛のために陰ながらアドバイスなさっていた。 


 一切ネットでも渓水茶寮のことをご覧にならなかったのは、やはり国広さんを心から信頼しての事だった。ご自分の存在を半ば消し去ろうとなさっていたのですね。私が花田さんを神様として推薦したのは、そんなあなたの自己抑制力と人に対する信頼ですよ。人を信頼できない人に他人から信じられるわけがないじゃありませんか。」



 私はただもう黙って聞いていた。老いは勝てず遂にはその小さな温泉町の病院に入り温泉療養するようになっても、私は窓から目に入る山や空を眺め、天気の良い日には許可を得て少しの散歩をするだけで、一切自分の元いた東京の屋敷へ帰ろうとはしなかったのだ。


 国広シェフにも一切自分の住所を知らせず、音楽プロデューサーをしていたひとり息子にだけ連絡をとって、情報を外へ漏らすことを厳しく禁じたのだ。そして息子には、父親は一人で遠くへ旅に出て行方が分からないとウソをつかせた。三途の川を渡り、この世にやってきて、元いた我が店の繁栄を知るとは想定外だった。皮肉と言えばあまりの皮肉になぜだか笑いがこみ上げてきた。


 そんなことを考えているうちにさっきオーダーを取ったボーイがアフタヌーンティーセットを運んできた。三段に盛られた料理とデザート。フィンガーサンドイッチと日本料理の巻き寿司がいちばん上の段に、そしてその下の段には、ストロベリーソースが一面にかかった季節のフルーツケーキ、そして一番下には、この店の自慢というクロッテッドクリームが入った見るからに柔らかそうなスコーン。


 フレンチの店で評価が下がるリスクのあるイギリス料理を出す勇気、さすが北川シェフ、余程自信があるのだろう、私が見込んだ職人だけのことはある。


 「スパークリングワインもございますが、まずはお茶でいかがでしょう。」とボーイが言った。

「それでお願いします。」


 私が手短かに答えると


「お茶はどういたしましょう。本日は中国茶、鉄観音などもございますが。」


と、お茶のメニューをテーブルに置いた。


「あーここへ来たときに高木さんが淹れてくれたアールグレイ、あれがいい。」

「了解いたしました。フォートナム・メイソンのアールグレイですね。本日のオススメです。」


とボーイはにこやかに言って去っていった。


つづく


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