第2話 研修開始

高木が小指を立てて上品そうに注いだ紅茶はアールグレイで、その芳香に私は酔った。

「アールグレイですか、おいしいですね。」と私は高木に言った。

 高木はこちらを見て声もなく微笑み、そして軽く一礼した。明らかにこの部屋に入ってから高木の私への対応が変化したことを感じ取っていた。いよいよ私は本格的にパワーを持った神様になるのだろうか。期待と不安、そして何か騙されているのではないかと言う疑念が入り混じって、私はそれをアールグレイの香りでごまかそうとしていた。


 そして半分飲んだところで立ち上がると着替えに入った。まず下につける白い衣を着て、袴を穿き、上の包を身に付けそして冠を被り顎紐を軽く締めた。手に笏を持って鏡に我身を映すとまるで自分が歴史上の人物になったような錯覚を受けた。悪くない、と私は思った。何か大河ドラマの主人公になったみたいだ。


 「よくお似合いですよ。」と高木が眩しげにこちらを見上げて言った。「着心地はいかがですか?」絹の手触りがつるつるとして心地良かった。樟脳の香りが漂って、威儀を正さないとこの衣装に負ける気がして背筋をまっすぐに伸ばした。丹田に力を入れて前を向く。「お髭があったほうがよろしいかと。」と高木が言った。「あーそうだ。」と私は気づいた。歴史上の人物でこの衣装を着て御簾の内に座っている公家や武将たちは、皆、立派な髭を生やしている。


 でも、髭が伸びるのはもう少し日が経たないととダメだろう。そう思ってもう一度鏡を見ると、口にも顎にもまるであの日本史の教科書の口絵に載っている伝源頼朝像のように立派なものが生えている。「あの、お分かりと思いますが。」と高木は恐る恐る言った。「もう神様になりかけておられるので、何でもおできになるのですよ。正式にいうと研修が済むまではまだ修行中の仮神様ですがね。」「そうか。」と。私は改めて思った。全知全能の神と言うキーフレーズが嘘をついて、私の口から出た。「それは少し違います。」と高木は言った。「あなたは一神教の神ではない。だから、全宇宙をひとりで支配しているわけでは無いのですよ。」「なるほど。」と私は思った。日本では至るところに神様がいる。台所の神様、トイレの神様、八百万の神は、その1つのところを支配していると言うわけか。


 「これから研修を始めるわけですが、その辺も含めてゆっくりと勉強していきますので、まず研修室へ移動しましょう。おっとその前にお紅茶せっかくですので、冷めないうちにゆっくりお飲み下さい。」「そうしよう。」と私は言った。せっかく高木が淹れてくれたんだもの、この男にこれからも世話になることだろう。心証を悪くされては、何事もうまくいかなくなるに違いない。私はゆっくりと紅茶をすすった。暖かい。そして芳香で溢れた流動物が私の胃の中へゆっくりと落ちていく。前世とあまり変わらない感覚に私は少し戸惑った。

 

 高木は、カップを譲り受けると小さなワゴンに乗せ、部屋の隅に寄せた。「さあ!」私に手招きすると、最初に私がいた部屋に一緒に連れ戻される。私はその豪華すぎる部屋で、まるで入社試験を受ける大学生のように緊張して、小さな椅子に腰腰かけた。私の前には筆記具を置いた小さなテーブルがあって、私は前に置かれた研修資料らしき紙の束に目を通した。しかしそれは白紙が何枚も重ねられているだけでとても資料とは言えないものだった。


 「これは?」と私は前の大きなテーブルの端に座っている高木に尋ねた「はい、神様。本日の研修資料です。」高木に改めて神様と呼ばれて、研修中で仮とはいえ、自分が神様になったんだ、とまた緊張感が増してきた。「この資料には何も書かれていませんが、これが資料とはどういう意味ですか。」高木は少し真剣な眼差しで私を見た。「あなたはやはりまだ何も自覚していない。」と高木は少し失望したように低い声で言った。「あなたはね、研修中とはいえもう神様なのですよ。誰かに何かを与えてもらう存在ではない。あなた自身が何かを誰かに与えなければならない立場なんだ。白紙はあなたが埋めなければならない。」「なるほど。」と私は納得した。


 確かに高木の言う通りだった。この資料と言うのも自分が全て作り出さないといけないんだ。それが創造主としての神様の役割なのだ。私がそう思っていると前のドアが開いて高木と同じような黒服に身を固めた男たちが数人威儀を正して入ってきた。最後に1人だけ女性が同じ黒服と黒スカートで入ってきて扉を閉めた。「この世でもジェンダーバランスが悪いなぁ。」私は初めて神様を自覚して前の者たちに少し居丈高に語りかけた。自分の神通力をちょっと試してみたかったのだ。


 彼らは戸惑っているようだった。私は「しめた。」と思った。これで自分がこの場所でイニシアチブを取れるかもしれない。なぜってもう自分は神様なのだから。「すみません、神様。」と中央に腰掛けた背のいくらか低い小太りの男が言った。「まだまだこの辺がこの事務所の問題でございまして。」少し震えて、掠れた声で男は恐る恐る謝罪しているようだった。「所長。」と左に座っていた若い男がとりなした。そして立ち上がって言った。「来年度はこの研修センターに数人の女性職員を入れ、さらに数年後は同数にいたします。方法論につきましては、センターでまとめ、神様に提出しますので明後日、13時までお待ち下さい。今夜は徹夜で職員に書類をまとめさせてコピーをお待ちお持ちしますから。」「その必要はない!」と私は声を荒らげて言った。

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