第7話

 名前のない岬に出たところで彼女は乱暴に車を停めた。アルコールとビートに乗せられてこのまま海に突っ込まなかったことに僕はほっとした。彼女がガチャリと鍵を回すと、まるで世界のブレーカーが落ちるように車内は暗闇と静寂に包まれた。建物の明かりも街灯も、月すらも見えなかった。彼女の息づかいと、時おり木の葉がこすれあう音がずっと遠くから聞こえた。それは完全な暗闇と不完全な静寂だった。目を閉じると自分がどこにいるのかうまく把握できなかった。最後に見た地名の標示は「ひめゆりの塔」だった。論理的に考えると、僕たちは沖縄の南の端っこにいるはずだ。歴史的に考えると、僕たちは集団自決の跡地にいるはずだ。でも論理と歴史は少しも役に立たなかった。僕はため息をついた。そして彼女の官能的な匂いを味わった。

 これから起こることを僕はよく知っていた。知っていながら知らないふりをした。そうなるとは思わなかったんです、自発的にやったわけじゃないんです、ただの成り行きなんです。もちろんそれは欺瞞だった。性にはいつだって欺瞞がつきまとった。戦争と平和につきまとう欺瞞と並んで、人間が生み出した最も醜い二つの欺瞞である。しかし、今回に限って、僕はその欺瞞を免れることになった。欺瞞は裏切られ、逆説的に僕の誠実性は救済された。

「うちがたっちゃんと付き合ったときさ、拓未はなんというか、いやだと思った?」と彼女が脈絡もなく言った。彼女の表情は見えなかった。ピアスも見えなかった。声だけは立体的でくっきりとしていた。

「どうかな、あんまりよく覚えていない」

 長い沈黙があった。僕はてっきりそこで会話が終わったのだと思った。

「うちはいやだったんだよね」

「え?」

「拓未にもし彼女ができたら」

「でもできなかった。少なくとも中学のあいだは」

「そうじゃなくて、いい感じの相手とか、たとえ片思いでも、仲いい男子とかも、なんかいやだなって思っちゃってたんだよね」そこで彼女が姿勢を変えたのが衣擦れの音でわかった。「変だよね。でもときどきそう思ってしまう。なんなら、拓未に友達が一人もいなければいいのにって。嫉妬かな。うーん。たぶん嫉妬だろうね。でも変だよね。自分は彼氏がいたし、そもそもうちらの関係って……。それでも許せなかったんだよね。これは謝らないといけないかもしれない」

「独占欲を持つのはおかしなことじゃない」

 彼女はため息をついた。気が遠くなるような長いため息だった。

「東京に行って変わったね」

「そうかもしれない。でも誰でも変わらない人はいない。だって十年前はヴィーガンじゃなかった」

「東京ってさ、かわいい子いっぱいいるでしょ?」

「まあ、母数が多いからね」

「そういうことじゃないんだけどね」と彼女は笑うようにつぶやいた。少しも楽しそうには聞こえなかった。

 それから彼女はごそごそと大きな音を立てて動いた。目が暗闇に慣れてきたおかげでいろいろなところの境界や輪郭がうっすらと見えるようになっていた。それ以外の部分は黒地に砂を撒いたようにぎらぎらしていた。彼女は腰を曲げて身を丸めているようだった。そして彼女は器用に体をくねらせ、僕に覆いかぶさるようにして手を伸ばしてレバーを引いた。助手席の背もたれが倒れ、彼女は窮屈そうに僕の上に馬乗りになった。体のところどころで不自然に力がかかり、骨が当たって痛かった。

「うち、これまで誰かをほしいと思ったことはほかに一回もないんだよ。わかる? 好きとか愛とかじゃなくて、ただほしいだけ。丸ごと全部。でもそれはできない。普通にはできない。ヴィーガンには肉が食べられない。何もかも自分のものにすることはできない」

 目の前の光景、といってもほとんど何も見えてはいないけれど、はどこか非現実的に思えた。それは夢とも違う、夢よりももっと現実を超越した何かだった。そのとき、僕はまだ呑気でいた。下半身は硬くなっていた。

「酔ってる?」と僕は水を差そうと思ったけれど、彼女は取り憑かれたように無視して続けた。

「これ、誰にも言ったことないんだよ。まさか本人に言うとは思わなかった」

 彼女の声は震えていた。もしかして泣いているのかもしれないと思った。

「東京に帰ったらさ、うちのこと忘れる?」

 忘れるだろう、と僕は思った。でも時々は思い出すだろう、とも思った。特に助手席に乗るときには。そして彼女は勢いよく僕の喉に突き立てた。気管と食道が同時に断裂した。それは刃物よりも鋭利な意志だった。

 目覚めたとき、僕はホテルのベッドの上にいた。

 スマートフォンはなくなっていた。

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海底ケーブル 白瀬天洋 @Norfolk

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