第6話
国道331号線は軽度の渋滞を抱えていた。のろのろと進んだり止まったりする車の流れは僕に昔テレビで見た生活習慣病患者の血管の動画を思い出させた。道路にもタマネギを食べてもらえばいいのかもしれない。ビタミンもたっぷり含まれている。
那覇空港に近づくにつれて病状も悪化し、僕たちは血栓の一部になってしまったように身動きが取れなくなった。彼女は二対一の割合でため息と舌打ちを繰り返した。対向車のヘッドライトがちくちくまぶしいので僕はずいぶん前から目を閉じて音楽に意識を集中させていた。
「拓未は今、彼女とかいるの?」
ブリッジ・ミュートがよく効いたギターに支えられた彼女の声は映画の予告編みたいだった。
「いないよ」
「そうなんだ」
「咲良は?」
「別れちゃった、先週」彼女は少しの滞りも淀みもなく答えた。ここまでは枕詞だったわけだ。「どう? 聞きたい?」
車が動き始めた。僕は目を開いて彼女を見た。ワンピースの黒さが彼女を現実世界から隠そうとしているみたいだった。腕から先と首から上だけが鮮明に浮き上がり、車の進みに合わせて不気味に明るくなったり暗くなったりした。左耳に三つのピアスがついていることに初めて気がついた。耳たぶにリングが二つと軟骨にジュエリーが一つ。それらが競い合うように光を反射して自己主張していた。
「話してくれるのなら」と僕は言った。彼女が話したがっているのを僕は知っていた。ところが僕がそれを知っているということを彼女はおそらく知っていた。会話のプロトコルは非常に複雑なのだ。プロトコルに関する知識とその実践を人はコミュニケーション能力と呼ぶ。彼女は規約通り語り始めた。
「ライブハウスで知り合った人で、ほら、うちインディーズとか好きだから、よくひとりで小さい箱に行くんだけど、転換のあいだに向こうから話しかけてくれて、けっこう話してて楽しくて、ライブが終わったあとにそのまま一緒にご飯を食べて、それでって感じ」
「そのときは、なんというか、一夜限りではなく?」言ってしまってから、侮辱的だったかもしれないと僕は後悔しかけた。彼女はまったく気にしていないようだった。
「いやうちも最初はそういうことかなって思ったんだけど、意外とそうじゃなかったんだよね。なんでだろうね。うーん、言い方はあれだけど、相性みたいなことかもしれない。九歳か十歳くらい上だったけど、だったからなのかな、よくわからないけど、もうびっくりするくらい相性がよかった。あの夜は、人生で一番くらいよかった。相手もたぶんそうだったんじゃないかな」
彼女の声からは隠しきれないうっとりとした甘美さが漏れていた。僕はその情景を想像したくなかったけれど、強く拒否すればするほど表象は細部にいたるまで描き込まれていった。彼女の恍惚とした表情も、彼女の原始的な喘ぎ声も、彼女の体を覆う汗の匂いも、彼女の粘液の独特な味も、シーツをきつく握りしめる彼女の指の一本一本までもが、五感のキュビズムのように組み合わさったひとつの虚構として僕の脳を支配していた。僕は罪悪感と羞恥心に挟まれた無力な肉の塊だった。僕にできる唯一のことはショートカットをしてさっさとこの話を終わらせることだった。
「でも、うまくいかなったの?」
「うーん、割と長いあいだそういうわけでもなかったんだよ。彼はちょっと遊び癖があって、でもそれでもいいの。まあそんなこと最初からうすうすわかっていることだしね。向こうは公務員で、お金にすごく困っているわけでもなかったし、半同棲みたいな感じで、バカップルみたいなくらいだった。それでもうまくいかなかったの。しかもケンカとかじゃんなくて、お互いだんだん冷めて、みたいな、なんでなんだろうね。どっちもそれぞれ好きだったし、めっちゃ相性がよかったのに。あ、体だけじゃなくてね。性格とか、笑いのツボとか、好きな音楽とか。それでもだめだった。もうぜんぜん意味がわからない」
瀬長島を過ぎて車の流れは二十歳のような若さを取り戻した。
「最初から勝ち目のないゲームだったんだよ」先頭で信号待ちしているときに僕は言った。
「勝ち目のないゲーム?」彼女がこっちを向いたのが視界の端で見えたが、僕はまっすぐ赤信号を見つめたままでいた。
「つまり、パリティが反転したルービックキューブを揃えようとするようなこと。一つのピースだけが揃っていないルービックキューブはどんなに回しても揃えられない。それは才能とか努力とかとは関係なくて、不可能なんだ。原理的に」
「よくわからないけど、もう一つ何かが逆になっていればよかったの?」
「たとえばそういうことになる」
「ふーん」
そして信号が変わり、彼女はアクセルを踏んだ。右手に見える海は、世界の一部がそのまま欠落してしまったように黒かった。
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