第5話

 マックスバリュの駐車場は一つの公共財になっていた。彼女の車もフリーライダーのうちの一つだった。僕は決して熱心な共産主義者というわけではないけれど、こういう場面に出会うとどことなく好意がこみ上げてくる。僕は車には全然詳しくない。白くて、丸まっていて、軽ではない。それが彼女の車について僕にできる精一杯の描写である。

 彼女がキーを押すと、ライトが一度だけ光った。そしてそのキーを僕に手渡して反対側に回ったので、僕は運転席に座るしかなかった。車内はみずみずしいようないい匂いがした。

「ドライブしよう」と彼女が言った。人権宣言と同じくらい無駄な言葉だった。

 僕はブレーキに右足を乗せてエンジンをつけ、サイドブレーキを確認し、バックミラーをひねった。カーナビはカーナビなりの沈黙を守っていた。

「ごめん、スマホをホテルに忘れてきたんだけど、マップお願いできる?」

「うちも持ってないよ」彼女はとろんとした目つきで僕を見ていた。「デジタルデトックス」

 僕はため息をついた。

「いやならうちが運転する」

 僕はもう一度ため息をついた。そして瓦礫のような声で笑った。

「めんどくさい男だなあ」

 異論を述べる前に彼女がドアを開けて降りたので、僕は三度目のため息をついて席を替わった。

「どこに行こう」と僕が聞いた。

 彼女はサイドブレーキをおろした。

「ヴィーガンでデジタルデトックスしてるのに、飲酒運転はいいのか」

 彼女は彼女なりの沈黙を守っていた。車は動き始めていた。

 自分には守るべき沈黙はあるのだろうか。僕はそのようなことを考えていた。これまでのところ、僕はどちらかといえば何かを言うよりも何かを言わなくて困った事態に陥ってしまうことのほうが多かった。どうしてもっと早く言わなかったのかと責められた。どうして言ってくれないのかと泣きつかれた。たぶん僕は、言葉によって自分の思考や感情が規格化されてしまうのが嫌だったのだと思う。説明しようと文章を頭の中で組み立ててみると、それが描き出す内容と実物との差異をあぶり出し、埋め合わせたくなる。単語を選び直し、語順を入れ替え、余計な部分を削り、足りない部分を付け足す。そうして出来上がった修正版でもやはり完璧とはいかない。そうやって再修正版、完成版、最終版、最終完成版、と繰り返していくうちに、いつの間にか発言の機会ははるか昔に置き去りにされてしまう。

 そこまで考えたところでオルタナティブ・ロックが流れた。彼女の選曲だった。

「こういうのを聴きながら運転していると、ちょっと変な気分というか、危ない気分になって、いい感じなんだよね」

「事故りそうだ」と僕が笑った。

「もろともだから大丈夫」と彼女も笑った。

 そういうわけで、僕たちは南に向かって車を走らせた。

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