第4話

 音楽室は四階の一番奥にあった。正門とは逆側の角にある階段を登りきると、右手に運動場一面を見渡せる花模様付きの大きな窓ガラス、左手に音楽室と音楽準備室が向かい合う短い廊下があった。それらを無視してまっすぐ進めば、給食とけが人用のエレベーターと物置きになっている教室を経て、二年生のテリトリーに入ることになる。

 そんな音楽室はあらゆる点で都合がよかった。早朝にわざわざここまで足を運ぶ生徒はいない。音楽の先生は非常勤で、授業がある水曜日と金曜日しか学校に姿を見せなかった。しかも金曜日は午後の授業に合わせて来ていたので、僕たちは一週間に四日分の機会を与えられたことになる。そして、何よりも、音楽室には防音という魔法がかかっていた。

「覚えているよ」と僕が言った。

「いま考えるとさ、結構すごいよね?」

「すごい?」

「すごい、というか、うーん、大胆? みたいな」

「なるほど」

 その点に異論はない。

「なつかしい」と彼女がつぶやいた。

 僕は黙っていた。

「あれからうちもいろんな人と付き合ったりしたけど、というか、あのときも、誰だっけ、たっちゃんか、たっちゃんと付き合ったりしてたけど、それでも毎朝、拓未に会うことのほうが楽しかったのかもしれない」

 僕はまだ黙っていた。手すり付きの遊歩道がいきなり途切れて、大木の葉が折り重なって青空を遮蔽し、地衣類と菌類に足元を囲われる、じめじめかつどんよりとした森林に放り出されたような心地がした。危険がそこら中で僕を狙っていた。話の行く先が見えなかった。

「あのときが一番、幸せ、というと言いすぎかもしれないけど――」

「でもあれはよくなかった」僕は彼女をさえぎった。

「よくなかった?」

「うん、思春期だった」

今度は彼女が黙る番だった。僕は取り繕うように言った。

「しかも、もうあんまり覚えていない」

「本当に?」

 尋ねると同時に体ごと寄せた左ひじが僕の右腕に触れていた。僕は筋肉の硬直と心臓の収縮が意識とは無関係に行われるのを感じた。彼女は目を大きく見開いていた。白目に映る血管の一本一本まで数えられそうだった。そして僕はわざとらしく首を振りながら、できるだけ自然に右腕を持ち上げた。水滴だらけのグラスの中身を飲み干した。視界の端で彼女は僕の真似をした。

 そこで僕は初めて注文のタイミングを逃していることに気がついた。テーブル席はもうすべて埋まっているらしく、笑い声と食器の音と聞き覚えのない洋楽が泥水のように渦巻いていた。バンダナを巻いた口ひげの男がカウンターを挟んだ向こうで右往左往していた。

「メニューある?」

 あるよ、と彼女が言って取り上げて見せたが、それを渡してはくれなかった。

「嫌ならいいんだけど、飲み直さない?」

「そうしよう」

 僕はけもの道に足を踏み入れたような気がした。

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