第17話 2014年 影響された者たち

【2014年5月 某国諜報員の記録】


「くそったれ」


 狭いアパートの一室で、彼は日本語でそう罵った。足元には安酒の空き缶が大量に転がっているし、今も残り少ない缶を手にしているが、ほとんど酔ってはいなかった。日本人はこれで悪酔いできるらしいが、この程度のアルコール度数、彼にとってただのソフトドリンクにすぎない。いや、彼の祖国でも最近は規定が変わったらしいが。


「新しい計画を出せと言われてもな……生活だってあるんだぞ」


 諜報員とはいえ、身分は高くない。現地に紛れて低賃金の仕事をしている……祖国からのバックアップは少なく、求められるものは多かった。


「次の計画は……懐柔案か……フン」


 祖国に対する日本国民の好感度を上げ、要求を通しやすくする。そんな地道なプラン。現地の諜報員として、庶民感覚で案を出せと言われたが。


「……アレは良かったんだがな」


 祖国発のアイドルグループを送り込む作戦。アレはよかった。間違いなく好感度は上がっていた。しかし、担当者がプロデュースの方針を間違えてテレビでトラブルを起こし、日本での活動ができなくなり……つい先日には解散に至った。


「焼き直しするにしても……やはり人間ではな……」


 人間関係はどうしてもトラブルが起きる。それに老いだってある。ただのアイドルを日本に送り込むのは、本局にも様々な問題点を指摘されるだろう。


「はぁ……」


 酒臭い息を吐いて、彼はテレビをつける。平日の朝、情報収集は欠かせない。


『――……本日はそんな流行のYouTuberをご紹介します!』

「フン」


 のんきなものだなと思いながら、彼は缶を飲み干す。テレビではインターネットの動画サイトで活動する若者を特集しているようだった。


「タレントと何が違う」


 流れてくるくだらない内容にツッコミを入れつつ、新しい缶を冷蔵庫から取り出そうかと思案したその時だった。


『中にはこんな変わり種も』

『こんにちは、人類!』

「……?」


 アニメみたいな女の声。映るのは、3Dのキャラクター。


『彩羽根トーカです』


 自己紹介の場面。


『私はバーチャルなYouTuberってことで』


 わずかに切り抜かれた定義を喋っている場面。


『それじゃあ地球を持ち上げちゃいますよ~、それっ!』


 逆立ちではなく本当に地球をひっくり返し、重力がおかしいことになっているよくわからない3Dアニメーション。


「………」


 わずか数秒の切り抜き。それが――


「これだ」


 彼の酒で濁った眼を開かせた。酒の代わりにノートPCを取りに行き、開いてキーボードを叩く。


「バーチャルな……アイドルによる……日本国民の懐柔……」


 次の仕事までそれほど時間はない。しかし彼は、それまでにプランをまとめて本局へ提出することができると確信して手を動かし続けるのだった。



 ◇ ◇ ◇



【2014年6月 西端にしばたたすくの記録】


 西端タスクはサラリーマンである。少なくとも自分ではそう定義している。勤めている企業が声優事務所で、多少マネジメントの権限があるからといって、特別な人間などではない。取引先に頭を下げ、上司と声優の機嫌をうかがう、激務で薄給のサラリーマンだと。


「はあ、参ったな」


 現に今もタスクは、上司と取引先から押しつけられた無理難題に頭を悩ませていた。


「声がよくてデビュー前の新人を長期間拘束したいって……非常識にもほどがある」


 なんでも、いちキャラクター専任の声優が欲しいという話だった。気持ちは分からなくもない。伝説の大御所の中には何年にも渡って同じキャラクターだけを演じ続け、それ以外の仕事をそのキャラクターのイメージを守るために断り続けていた人もいる。特別なキャラクターに専属の声優は欲しいと思うものだ。


 だがそれは長期プロジェクトになることが確実で、それ一本で食えていけることが明白だからやれることだ。話を聞けば給料は出来高で、継続性も不透明、そのうえ声優は非公開にするという。


「新人の仕事じゃないだろ……」


 声優は様々な役を通じて演技の幅を広げていくものだとタスクは考えている。それがいきなり一つの役に固定、しかも経歴には載せられない? 時間を棒に振るようなものとしか思えなかった。事務所としては未来ある新人を出すわけにはいかない。


 だが、ニシバタタスクはサラリーマンである。与えられた仕事はこなさなければならない。声優を守るため何らかの条件緩和を訴えるか、あるいは――


「おはよーございます!」


 タスクが唸っていると、事務所の扉が開いてデカイ声が響いた。少なくないスタッフが仕事中だったが、みんなそれを聞いて苦笑するだけで注意はしない。


「おはよーおはよー! あれ、シバタさん、元気ないね!? どうかしたの?」

「ニシバタです」


 タスクはため息を吐いて、息を吸い直す。


「おはようございます、ヴァレリーさん。今日も元気ですね――」


 ――27歳にもなって……という言葉は飲み込んだ。年齢は人のことを言えない。


「シバタさんは元気ないね? 大丈夫? ヨシヨシしようか?」

「やめてください。セクハラですよ」

「えー」


 大の男がヨシヨシなどされるものか、とタスクは突き放した。唇を突き出してブーたれるヴァレリーを見て、二度目のため息を吐く。


 ヴァレリーはこの事務所の所属声優である。大声でも耳が痛くならない声質は天性のものだし、性格は明るい。多少のことにはめげないし、何よりスレンダーな美人だ。演技力も歌唱力も問題ないし、声優事務所としては売り出していきたい人材だった。


 だが、売れていない。


 というか、売り出していない。


「そういえばさっきアヤノちゃんが出てったけど、何か新しいお仕事?」

「さあ」

「お仕事でしょ。教えてよ、ねーえ!」

「……教えられません」


 事務所の方針として、教えられない。


 ――なぜなら彼女には疑惑があるからだ。


 声優の専門学校に入ったヴァレリーは、そこで早くも頭角をあらわした。声、性格、ルックス、演技力、すべてが一級品。なんでも手本となる人物が幼少から近くにいたとか……とにかく、無為に学生を続ける必要はどこにもなかった。

 事務所は早速彼女と契約をし、在学中のデビューを企画し、そして有名監督のオリジナルアニメのヒロインオーディションに送り込むことに成功した。


 そこでヴァレリーは見事に期待に応え、審査員満場一致で合格し、それどころか明るい性格で監督、スタッフ、スポンサーの心を鷲掴みにした。いつの間にか監督もノリノリでこのアニメを彼女を世に送り出すためのプロジェクトとし、脚本もヒロインの出番が増え、オープニングはヒロインのキャラソンになり、主人公より前に出たプロモーションが計画された。


 何もかも順調、このままいけばオタク業界に旋風を巻き起こすデビューになると誰もが考えていた中――事件は起きる。


 その内容のほとんどが、インターネット上に流出した。


 タイトル、放送期間、序盤の展開、予定されるプロモーション……そしてヒロインが未だ無名の学生であること。どこかの掲示板に書き込まれ、あっというまに『まとめサイト』によって拡散された。


 製作委員会は揺れ、スポンサーは怒り、第三者機関による調査が行われた。誰がこのプロジェクトに致命的な打撃を与えたのか。しかしダークウェブを利用して行われた投稿に捜査は難航する。


 そんなときだった。「もしかしたら自分のせいかもしれない」とヴァレリーが告白したのは。聞き取り調査の結果、彼女が『声優学校の誰か』に話し、『親しい友人』に手紙を送っていたことが分かる。


 だが、そこまでだった。ヴァレリーはその相手の名を明かさなかったし、もはやプロジェクトも捜査に関わっている暇はなく、事を大きくしたくなかった。


 口を閉ざして土下座するヴァレリーを残して、プロジェクトは計画を修正する。タイトルを変更し、脚本を書き直し、オープニングソングを差し替え、ヒロイン役を新たにオーディションする。


 かくして潤沢な予算は消え、こじんまりとしたアニメが放送されて終わった。


 ヴァレリーの責任は、問われなかった。ヴァレリーが情報漏洩の大本であるとは特定できなかったし、たとえそうだとしても「親しい友人になら話してもいいよ」と許可をした監督に責任があるとされた。誰が責任を負うこともなく、全体のコンプライアンス意識の徹底を図る、といったあいまいな決着をしたのだが――


 問題を起こしてヒロイン役を降板した、という噂はヴァレリーについて回るようになり、スポンサーはヴァレリーの採用を許さないようになった。


「なら、アヤノちゃんに聞いてきてもいい?」

「ダメです」


 そして事務所も、ヴァレリーに情報を渡さないようになった。あれから、役がバレても問題ないような仕事しか割り当てていない。「少女B」とか「生徒その3」とか「妖精たち」とか、あるいはどこかの館内アナウンスとか。


 そう。実際のところ、事務所はもうヴァレリーに期待していない。真実は分からなかったが、信用もしていない。ただ、学生時代に採用した金の卵を自ら手放して業界で笑いものにされたくないがために、自主的に辞めるのを待っているのだ。


 だが――彼女は、それでもバイトをしながら声優を続けている。端役でも文句を言わずに引き受け、嬉しそうに仕事をする。


 そんなヴァレリーを、タスク個人は信用していた。ちょっと抜けているところはあるが悪い人間ではないとも思う。……しかし、タスクはサラリーマンである。上の方針には逆らえない。


「ねえねえ、シバタさん、話聞いてる!?」


 タスクは聞いていなかったが、ヴァレリーは何かペラペラと喋り続けていたらしい。


「聞いてませんでした。何でしょう?」

「何かお仕事ないの? って聞いてるの!」


 タスクはヴァレリーの専属マネージャーではない。彼女の仕事の面倒をみる必要はない……のだが、どういうわけか彼女はタスクに絡んでくるので、結局タスクが仕事を斡旋をしている。


「そうですね……」


 だが、紹介できるのは端役だけだ。ヴァレリーならどれも問題なくこなせるだろう。いくつか紹介できる案件があるのは把握していた。しかし……事務所からは最近こうも言われている。


『端役だって大切な役だ。未来のある新人に回してくれないか?』


 ……未来。ヴァレリーに未来がないのは誰のせいだと。


「………」

「シバタさん、あたしさ」


 タスクが黙り込んでいると、ぐいっとヴァレリーがその視界に回り込んで目を覗き込んできた。


「事務所とか、いろんな人に迷惑かけたじゃん。でもこうしてお仕事続けさせてもらってるの、すごく感謝してる。だから早くすごい役をやって、恩返ししたいんだ。そのためなら何の仕事だってやるよ!」

「……ヴァレリーさん」

「す、少しぐらいえっちな役でも大丈夫だよ!」


 違う。そうじゃない。そういうことで悩んでたんじゃない。いや成人向けの案件を紹介できなくはないが。


「はぁ。あのですね」


 少し説教しようとして――タスクはふと思い出す。厄介な仕事のことを。


「ヴァレリーさんは……これまで、名前つきの役はやっていなかったですよね?」

「うん」

「スタッフロールに載ったことも?」

「ないっ!」


 つまりこうは考えられないか。


 ヴァレリーは新人――のようなものであると。


「ヴァレリーさん」


 例の騒動でも、ヴァレリーの名前だけは表に出なかった。在学中の新人声優としか書き込まれなかった。つまり業界でも限られた人間しか知らないはずだし――バレたところでかまうものか。無理難題を言う方が悪い。誰にも回せない仕事なら、誰がやっても事務所は文句を言わないはずだ。


「バーチャルYouTuberっていうのをやる気はありませんか?」

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