第31話 彼女と彼の話-9
翌日、得意先での打ち合わせのため、チーム長と外出していた。
「橋本さん、何か考え事でもあるの?」
この人はいつも人の心を読んでくる。
上司としては尊敬しているけれど人としては苦手だ。
「いえ別に。この後の商談のシミュレーションをしていただけです」
「前から思ってたけど、橋本さんって嘘つくの下手だよね」
ほら、こういうところ。
この人が独身の理由がわかる気がする。
「嘘?なんで私が嘘をつかなきゃいけないんですか」
「だって橋本さん、人に弱音吐いたり相談したり。そういうこと全般苦手でしょ?そうならないように全部自分で解決しようとする。だからたまに初歩的なミスをする」
おもむろに自身の鞄からパソコンを取り出し、何かを見始める。そして、
「ほらここ。橋本さんが普段しないようなミスだよ」
そういってパソコンの画面をこちらに向ける。
映っているのはこの後に使う資料で、相手方の担当者の名前の欄だった。
「名前、ちゃんと入れてますよ?」
「うん入ってるね。前任者の名前が」
・・・前任者?
「前回の打ち合わせの帰り際、担当が変わるって挨拶したでしょ?今日からその人がメインの窓口になるからって。名刺交換もしてたよ」
そうだったっけ。
急いで名刺入れの中からその人の名刺を探す。あ・・
「この方・・・ですか?」
「そう、その方。ちょうど編集してるから一緒にいじっとくね」
「すみません、ありがとうございます」
いえいえ~と視線をパソコンへ戻した。
チーム長が気付かなければ、そのままの資料を得意先へ渡していただろう。
あんだけ言われて挨拶もしたというのに。
こんなミス、1年目の時でさえしたことなかったのに。
チーム長のおかげで打ち合わせは無事終了し、そのまま本社へ戻る。
しかし、なかなタクシーに乗ろうとしない。
「ねぇ橋本さん。今日この後時間ある?」
「この後ですか?まあ特別なスケジュールは入れてないのでありますけど」
「じゃあ面談も兼ねて外でご飯食べてから戻ろう!」
お酒飲めないのは残念だけど~と言いながら駅とは反対方向へ歩き出した。
しばらくするとこの時間でもランチをやっているお店を見つけたのでそこへ入る。
中は落ち着いた雰囲気で、ランチタイムが長いからなのかサラリーマンで賑わっていた。
お互いメニューから好きなものを選び、注文する。
「今の時期、例の面談の時期なんだよねー。これやらないと僕の昇進にも響くのでご協力お願いしますね」
そう言って気持ち悪いぐらいの愛想笑いをして見せた。
「ま、別に面談なんかしなくてもみんなはちゃんと実績を上げてくれてるから心配してなんだけどさー」
「じゃあ別に形式上の面談でいいじゃないですか。わざわざ外でやらなくても」
「会社でやったら君、表情で色々バレちゃうでしょ?香藤さんに聞かれたらどうするの?」
図星すぎて怖い。
この人なんか変な力使えるんじゃないだろうか。
それとも私がそんなにもわかりやすい人間なのだろうか。
「それにこの間、香藤さんと面談したんだよ。とても面白い人だね、彼女」
「面白い、ですか?」
「辞書で“謙虚”って引いたら香藤さんって書いてありそうじゃない?」
確かにそれはなんとなくわかるかもしれない。
「でもいい意味でも悪い意味でも謙虚、なんだよね。僕はそれがもったいないなって思ってて。なので彼女に今後どうなりたいか、将来のビジョンはあるか聞いてみたんだけど、そんな言葉初めて聞きましたみたいなリアクションされちゃった」
この人、文那のリアクションを楽しんでたな。
「でも彼女は頭も切れるし1つ1つの仕事がとても丁寧。他者とのコミュニケーション能力はうちのチームで1番高いと思ってる」
運ばれてきた定食を食べながら話す。
この人は私情を挟まず公平に仕事やその人自身を評価してくれるからいい人だと思っている。
”上司として”、は。
「だから今後営業とかはどうかなって提案したんだ。無理にやらせようとはしてないよ、そんなことしたら橋本さん怒るだろうし。今のままずっと内勤でも居てくれるだけでありがたいからね。でも、彼女がもし上を目指してみたい、もっと頑張ってみたいというなら僕はその背中を押したいなと思ったんだ」
いいこと言うでしょ?というこのドヤ顔。
こういうところは好きじゃない。
「彼女は自分の人生や未来に興味がなかったんだろうね。少し殻に閉じこもっていた様子も見て取れたし。あ、彼女からは何も聞いていないよ。どんなことがあったかは知らないけど、それがあったからこそ今の彼女が形成されている。あの怒涛の1ヶ月だって僕と橋本さんだけではどう考えても無理だったし。彼女がいろんな方面に協力してもらって初めてあの成功があったと僕は思ってる。君もそう思いませんか?」
そうですね、と相槌を打ちながらこの短期間で急成長を遂げた文那に驚いている。
大学時代を知っている人は誰もが驚くと思う。
彼女が未来や将来を語るなんて今までになかった。
1度だけ、あの恋愛の時に言っていたけど。
でもそれをあの子は3年で乗り越えた。
そしてさらに上へ成長してみたいと思い始めている。
もう誰かがそばにいなくても、彼女は乗り越える力を自力で身につけたのかもしれない。
「そんな香藤さんの成長をみて、どうですか?」
そんな聞き方してるけど、言いたいことは全部気づいているんだろうな。
「正直驚いています。入社してからこんなに早く新しい彼女に出会えると思っていなかったので。学生時代の癖が抜けなくて、いつも世話を焼いてしまうんですがもうそれも必要ないのかもしれませんね」
「橋本さんは香藤さんの育ての親か何かなの?」
そう言ってチーム長が笑う。
いろんな意味で本当にすごい上司だ。
下に慕われるにはここまでの人間力が必要なのか。
私には到底超えられない高い壁だ。
「そろそろ、橋本さんのお話を聞いても?一応これ、面談なので」
食後のコーヒーを飲みながら、私が話すのを待つ。
「彼の、海外赴任が決まって」
「おぉそれはすごい。彼は橋本さんと同じくらいの年齢?」
「1つ上です。大学の1つ先輩で」
「大学時代から付き合ってるの?すごい長いね。それに30代で名前が挙がるなんて相当優秀な方なんだろうね」
うちに引き抜いてきてよ、なんて冗談を挟む。
「3年間。アメリカなんです」
そのあとの言葉が続かない。
上司に相談するなんて初めてだからなんて言ったらいいのか、こういう時はどうすればいいのか。
「橋本さんについてきてほしい、恋人にそう言われたんですね?」
「・・・はい」
ふーっと大きなため息を吐く。怒ってるのかな。
「どうしてそんな大切なこと、もっと早く言わなかったんですか」
「え・・」
「橋本さんのことだから、どうせもっと前に恋人から言われてたでしょ」
「1ヶ月前、くらいですかね」
「ほら!そんなに長く問題放っておいて!香藤さんに相談しようとしてなかなか出来なかったってオチでしょ」
この人が副業で占い師とかやったら儲かるのではないだろうか。
今度どっかのクライアントにプレゼンしてみようかな。
「行きなさい」
「え?」
「アメリカ。橋本さんも一緒に行きなさい」
「で、でも3年ですよ?出発まであと2ヶ月しかないし・・。引き継ぎとかだってまだこれからだし」
「職場での代わりなんて、腐る程いるんですよ」
私の言い訳をとても冷たく遮った。
「今このチームからあなたを失うのはとても大きい損失です。僕個人の気持ちを言えば行って欲しくないしこのままうちで仕事を続けてほしい。ただ、現実とは残酷で代わりの人間なんていくらでもいるんですよ。あなたの仕事をする代わりはいくらでも」
代わりはいくらでもいる。
自分が今までがむしゃらにやってきて、少しづつ積み上げてきたものが崩れていく。
視界がどんどん揺らいでいく。
「でも、あなたの恋人を支えられるのはあなたしかいないんです。大事な人の、恋人の代わりはこの世にあなた以外存在しないんですよ」
その言葉にハッとした。
そうだ。
そんなこと、私が一番分かっているはずなのに。
洋ちゃんの代わりは誰にも務まらない。
ということは私の代わりは私にしか務まらない。
「最後に決めるのはあなたなので、これはあくまでおじさんの一意見として聞いてくだされば結構です。もし僕が30代で10年近くお付き合いしている大事な女性がいたら、きっと君の恋人と同じことを言うと思います。それは新しい世界で頑張る僕を隣で支えてほしいから。男は弱いので、そうやって支えてくれる存在があるととても強くなれるんですよ。新しい環境で、言葉も通じない、そこで戦うにはかなりのパワーを要する。そのパワーの源は愛する人の存在なんじゃないですかね。3年間ただ離れるのが寂しいのではなく、あなたと一緒に同じ時間を過ごしたい。お互いに新しいステージを目指して一緒に歩みたい。若ければそんな歯の浮くセリフも言えたでしょうね。ま、僕独身ですけど」
そう言ってハンカチを差し出してくれた。
「3年後、もしあなたが復帰を望むなら喜んで席を用意させていただきます。もしかしたら、僕と同じポストになるかもしれませんね。僕が自分の席を守るために必死になれるよう、3年間でのあなたの成長を期待してもいいですか?」
そんなこと、言われるなんて思わなかった。
そもそもこのチームに異動になったのも、私が原因だった。
同じチームだった同期や後輩から私がいるなら辞めたいと異動願いが出されたのだ。
その時の私は辞めたいなら辞めればいいと思っていた。
そんな意識の低い人がいたらチーム内の士気も下がると。
でもその時点でまだプロジェクトは進んでいたので上司たちがなんとか説得して、プロジェクトが完了するまで、という期限付きで了承してくれたと聞いた。
そして終了した瞬間にチームが解散。
私は路頭に迷い、今のチーム長が引き取ってくれたのだ。
多分、なすりつけられたのだろうけど。
今のチームにも最初から嫌われていた。
いろんな噂を聞いたのだろう。
でも前と違ったのは、こんな絡みづらい奴に、
「この間のプレゼン資料、めちゃめちゃわかりやすかったんだけど作り方とかどうやって工夫してるの?」とか、
「先方と連絡が行き違っちゃってトラブりそうなんだけど、橋本さんの意見もらえないかな?」とか。
何事もなかったかのように接してくれたのだ。
そして、「橋本さんはやっぱすげーよ」と、私のことをやっかみなく認めてくれたのだ。
最初はそんなことを言われるのは初めてだったし、どうしたら思っていることが伝わるのかわからなかった。
仕事はできるけど、人とコミュニケーションを取ったり、感情を伝えることが幼少期から壊滅的だった。
でも、少しずつ。
本当に少しずつだけど自分なりにできる努力をした。
下手くそかもしれない、まだうまく伝えられないこともある。
怒らせたり嫌な思いを無意識のうちにさせてるかもしれない。
だけど、今私がこのチームに居られるのはみんなが私を受け入れてくれたから。
そして今、不器用な私を認めようとしてくれている。
こんな有難い環境、世界中どこを探しても見つからないと思う。
きっとみんなには伝わっていないけれど、私はそれぐらいこのチームが好きなのだ。
だからこそ、そんな大好きなチームのチーム長にそう言ってもらえたことが何よりも嬉しい。
やっと少しだけ恩返しをできたような。
そんな気分だ。
「ありがとうございます。このチームに異動してきた時から迷惑ばかりかけて本当にすみません」
「迷惑なんてかけられてないですよ。心配はたくさんしましたが」
私の前向きな返事をどこかで期待している様子だ。
「3年間だけ、時間をください。今よりもっと大きい人間になれるよう、“いい時間”を過ごしてきます。そしていつか私もチーム長のように周りに慕われる、そんな人間になれるように。そのためにいろんなものを吸収してきます。なので、私にその座を奪われないようチーム長も3年間頑張ってください」
怖いなーと唇と尖らせる。
これっぽっちも思っていないくせに。
でも最後は、
「いってらっしゃい橋本さん。また3年後、必ずお会いしましょうね」
そう言って握手をしてくれた。
会社に戻るタクシーのなかで、チーム長がそういえば、と口を開く。
「そういえば、恋人は橋本さんを“恋人”として連れて行くんですか?それとも“奥さん”としてですか?」
「え・・・・」
「あ・・・まさか、プロポーズ的な話はまだしていない・・・」
こくり、と頷く。
「忘れましょう!僕の戯言だと思って全て忘れましょう!そう、橋本さんは何も聞いていない!僕も何も言っていない!」
解決!と勝手に解決していたが、そういえばその話をしていなかったな。
まぁ洋ちゃんのことだから海外の話をしなきゃっていうので頭がいっぱいで結婚とかプロポーズとかまで頭回らなかったんだろう。
「でも・・・」
うわ、この目。
絶対変なこと思いついたんだこの人。
「逆プロポーズっていうのも、最近は流行ってるみたいですね♪」
なんだ今の。語尾に変なマークついてたぞ。
「あ、そうなんですか。独身なのによくご存知ですね。あ、もしかしていつか言われることを夢見てる感じですか?♪」
あまりにうるさいので一旦黙ってもらうことにした。
その日の夜、家に帰るとすでに洋ちゃんが帰ってきていた。
「かなちゃんおかえり、今日も遅かったね」
ご飯あっためようか?という彼に、「後でいいや。先にちょっと話がしたいの」と言ってソファに座ってもらう。
私も部屋着に着替え、隣に座った。
心なしか緊張している彼。
なぜ君が緊張するの。
「ようちゃん」
「はい」
なんで敬語?
「海外の件、いろいろ考えたんだけど・・・」
チラチラと私の目を見ながら頷く。
「洋ちゃんは私を“恋人”として連れて行くつもりですか?それとも“奥さん”として連れて行くつもりですか?」
予想と全然違ったのだろう、驚きすぎていつの間にかソファから落ちていた。
「私としては、知り合いが1人もいない海外に仕事を辞めてついて行くわけですからそれなりの立場でと考えています。もうすぐ10年ですし、いい頃合いかとは思っていますが、山崎洋平さんはどう思いますか?」
これ、うまく伝わってるかな?
私にしては素直に話している方だけど。
一般的にはもっといい伝え方があるんだろうけど、当然私には無理なわけで。
でもさすが10年私の隣にいる恋人。
どんな文章でも、その中から私の気持ちを汲み取ってくれる。
と思っていたのに。
「えっと・・・かなちゃん、ちょっと待ってて!」
え、何?
そう言い残しどこかに走って行った。
そして数分後、なぜか一張羅のスーツに身を包んだ彼が現れる。
え、だから何?
そして急にひざまづき、こう言い出した。
「かなちゃん。俺たちの出会いは大学の学食だったね」
「え、う・・うん。そう、だったね」
なんか急に思い出話が始まったんですけど。
「俺の一目惚れでさ。付き合うまで結構アタックしたけど、かなちゃんは全然なびいてくれなくて。ま、そこも好きなんだけど」
どっちだよ。
「でもかなちゃんが俺の恋人になってくれたあのクリスマス、俺は一生忘れないと思います。改めて、彼女になってくれてありがとう」
「え・・うん。こちらこそ、ありがとう?」
もはやどうリアクションすることが正解なのかわからない。
「それから10年、大きな喧嘩もなくこれまで幸せに過ごせたのはかなちゃんがいつも俺の気持ちを尊重してくれたからです。俺たちが決めた最初の約束。2人のことは2人で相談して決める。これをずっと守れたから今の俺らがあると思っています。同棲のことも、海外の話も、否定や拒否、反対などを一切せず一番いい方法を見つけようとしてくれる。その歩み寄ってくれる姿勢を俺はとても尊敬しています。俺はそんな素敵な女性に出会えて、好きになって、好きになってもらえて。10年も一緒に隣にいれるなんて世界一の幸せ者だと本気で思っています。だからこれからは、そんな女性を俺が世界一幸せと思えるようにしたいんです。」
そして両手で私の手を取る。
「橋本佳奈子さん、ここで意見を聞きたいんですけどいいですか?」
「はい・・・」
「俺はずっとかなちゃんが好きです。誰にも負けないくらいかなちゃんが大好きです。かなちゃんという存在が好きなんです。だから、死ぬまでずっと俺の隣で笑っててほしいと思っています。俺が笑顔にしたいと思ってます。出会って10年。そろそろ次のステージに進みたいなと思っています。俺はかなちゃんと死ぬまで一緒にいたいです。そのためには俺はかなちゃんの“旦那さん”になりたいと思っているんですが、どう思いますか?」
だめだ。
心臓の音がうるさいし息もまともにできない。
視界も歪んでそれどころじゃない。
「どうって・・・」
「2人のことは、2人で決める。そういう約束でしょ?」
私の目尻から溢れる気持ちを、優しく一粒づつ大きな指で拭っていく。
「本当に、ようちゃんはいつもずるいよ」
「ずるいのはいつだってかなちゃんだよ」
ちゃんと気持ちが伝わるよう、いつもより慎重に言葉を選ぶ。
でもこんなときに限ってありきたりな言葉しか浮かんでこない。
「ようちゃん」
「はい、かなちゃん」
「旦那さんになる件ですが、とてもいい案だと思います」
そう言い終えると、私に触れていた彼の手が離れる。
そのままジャケットのポケットに手を入れ小さな箱を取り出す。
「じゃあもう1つ、聞いてもいいですか?」
すると彼はその小さな箱をそっと開いた。
「橋本佳奈子さん。僕はあなたと結婚したいと思うのですが、どうですか?」
顔を真っ赤にして、汗だくになりながら最後まで私達らしい言葉を選んでくれるこの優しさに一生添い遂げたいと心から思った。
なので私も、私達らしい言葉で返事をしたい。
伝えたい気持ちを全てこの言葉に乗せて。
「・・・世界一、いい案だと思います」
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