第9話 彼と彼女の話-6




佳奈子と食事をした翌週、私は佳奈子の会社の見学に来ていた。


話をしてから数日、わざわざ佳奈子と同じ会社で働く必要はないんじゃないかと何度も悩んだ。


昔彼女の愚痴を聞いた時、私とは生きている世界が違うと思ったのを思い出したのだ。


四六時中仕事のことを考えて生きるなんて私には絶対向いていない。


それに、常に結果を求められ続ける仕事なんてしたことがない。


以前勤めていたところはどちらかというと“ゆるい”会社だったのだ。


その雰囲気が私は好きだったし、とても仕事がしやすかった。








正直、今でもあの会社を辞めてしまったことを後悔している。

全て自分がいけないとわかってはいるけど。


でも、ここを断って自分から仕事を探すのも面倒だった。


金銭的な問題で仕事を探さなければと重い腰を上げたはいいものの、3年間無職で特別資格があるわけでもない私がどうしたら再就職できるのだろうか。

考えるだけで頭が痛くなった。


それにこの3年間のことをなんて説明したらいいのか。

失恋のショックが大きすぎて人との関わりを最低限にしたら会社で浮いちゃって申し訳なくなって辞めました、気付いたら3年経ってました。なんて話して、はい、そうですか。じゃあ明日から来てください、なんてならないだろう。

私が面接官だったらすぐ落としてる。




そんな自分を採ってくれようとしている会社があること自体有難いことなのだ。

それに、佳奈子が言うには私の仕事は佳奈子のサポート役。

佳奈子と同じ第一線で戦うわけではないのだから今から気負うこともないだろう。


とりあえず見学だけでもと思い、佳奈子へ連絡を入れた。




そして、約束の日。


奇跡的にクリーニングに出してあったスーツに3年ぶりに袖を通し、急遽新調したパンプスを履いて佳奈子の会社へと向かった。
















3年ぶりの渋谷。

幸い会社とあの店は同じ渋谷でも方向が違うので安心した。


気持ちは落ち着いたとはいえ、相変わらず湊そうくんとは連絡を取れずにいた。

彼は私を心配して定期的に連絡をくれた。



でも、その全てに私は返事をしなかった。






裕太さんが既婚者じゃないかと考え始めたとき、湊くんの言葉が頭をよぎった。





以前相談をした時に言われた、

「店長は結婚に対して壁があるじゃない?」だ。


あるんじゃない?という予想ではなく、あることが確定した言い方だった。


その時は何も疑問に思わなかったけど、真実が分かった今はそれがどういうことを意味しているか嫌でも理解するしかなかった。

きっと、彼は既婚者だということを知っていたのだろう。





既婚者と分かっていながらも私たちの関係を応援していた。

無用の親切。






そんな彼とは未だに向き合うことを避けている。

真実に向き合うために必要な勇気はもう使い切ってしまっていたから。











指定された住所に着くと、そこは驚くほど大きなオフィスビルだった。


渋谷という立地にこの建物。

そしてそこに出入りする人たち。

全てに圧倒された。


ここで働くことになったら私もあの人たちみたいになれるのだろうか。



行き交う人を目で追っているとガラスに映った自分の姿が目に入った。

いかにも量販店で買いましたと言わんばかりのスーツと、夕方には靴擦れが起きるであろうおろしたてのパンプス。適当にまとめた艶のない髪と、両親に買ってもらった学生時代から使っている就活バッグ。




いや、私がおかしいんじゃない。

そもそも、生きている世界が違うんだ。


きっと食べているものも住んでいる場所も会話の内容も。

吸っている空気さえ違うかもしれない。




そんなどうでもいいことを考えていると遠くから私を呼ぶ声がした。

声の方へ顔を向けると仕事仕様の佳奈子が迎えに来てくれていた。




「お待たせ。場所すぐわかった?」



「うん、大きいビルだったからすぐ分かった。なんかすごいところだね」



「そう?ただ建物が大きいだけで別に中は普通だよ。働いてる人も普通。なんなら仕事せずただぼーっと過ごしてるだけの人間もいるくらいだから」




佳奈子に仕事できる人と認定されるためにはどれだけ働かなきゃいけないんだろう。私は一生かかっても無理だな。


「フロア案内するね」と言って立っているのも難しそうなピンヒールを鳴らしながら歩く彼女を後ろを5センチヒールで必死に追いかけた。










笑顔を崩さないお人形さんがいる受付を過ぎ、首元に下げたカードでセキュリティを抜ける。


ドラマでしか見ないようなエレベーターホールにはドアが8つ。

低層階〜中層階、中層階〜高層階で異なるため全部合わせると16機。

乗り間違えないようにね、と佳奈子に教えてもらった。



大人15人くらいが乗れる箱には日本語以外の言語も飛び交っていた。


見るもの全てが新鮮で可動域ギリギリまで首を動かした。


それまでずっと携帯を見ていた佳奈子が私の挙動に気付き、

「恥ずかしいからやめて」と小さな声で叱った。






このビルは佳奈子の会社だけでなくたくさんの会社が入っているらしい。

もちろん全員と関わりがあるわけでもないし、どんな企業が入っているのかもわからないと言っていた。


「洋平が前にこのビルに来たとき芸能人とすれ違ったってバカみたいに騒いでたからそういう系も入ってるのかもね」とエレベーターのボタンを操作しながら話す。


23階に到着し、箱を降りる。


するとここにもお人形さんがいた。

お人形さんへ会釈をして前を通り過ぎガラス扉の前で止まった。




「ここがうちの会社。上司は今日出張でいないからまた今度紹介するね」


そう言い終わるとまた首から下げているものをかざした。

ピピッと機械音がすると同時に扉が自動で開いた。


佳奈子の背中に隠れながら恐る恐る足を踏み入れると思わず「うわぁ」と声が漏れた。








テレビでしか見たことがない広々としたオフィス。

ガラス窓がとんでもなく大きくて自然光でキラキラしている。


働いている人もスーツやオフィスカジュアルはもちろん、デニムやスニーカーといった普段着のような出で立ちな人も少なくない。

前の会社では考えられないくらい今時、というか最先端、な感じがした。

多分全然伝わらないだろうけど『TOKYO』って感じ。


私が働いていたところも同じ東京だったけれど、

それとは比べ物にならないくらいTOKYO。




圧倒的TOKYO。




多分今私は地方に住んでる佳奈子の親戚で東京の会社を見学したい!とかわがままを言ってしょうがなく連れて来た、そういう風に見られているだろう。






・・・いやいや香藤文那かとうあやな

何を暴走しているんだ。

もしかしたらここで働くかもしれないんだぞ。


右も左もわからない失恋ニートが突然この中に放り込まれるかもしれなんだぞ。

最悪な事態を想定しながら偵察に励もう。






このフロアはお人形さんがいた受付を中心に半分に区切られている。

どちらも同じ会社だが部署が違うらしくあまり関わりもないらしい。

そして、オフィスは壁や仕切りが一切ないワンフロアタイプ。


それでも一応チームごとの島は決まっているとのことでフロアの奥へ案内された。




「ここが私たちのチームの島。ま、クライアントのとこ行ってたり外回りしてたりとオフィスに絶対いるわけじゃないからフリーデスクみたいな感じもあるけど」


ここ座って、と隣に座るよう促され遠慮がちに座った。


「文那は基本オフィスに居てもらって事務作業が中心かな。最先端な感じに見えるかもしれないけど、まだまだアナログなとこもたくさんあるの。文那が慣れるまではあんまり外行かないようにするし。営業とかに出てもらうとかは今の所考えてないからそこは安心して?」と説明された。


直接会った時もそんな感じの説明を受けていたからなんとなくイメージはできてたし、佳奈子がいてくれる安心感はすごい。

それに、他の人は基本的に外でお仕事されてるらしいから人見知りの私にはすごく助かる。いずれは挨拶しなきゃだけど。




「どう?この環境が嫌じゃなければ私としては文那に来てほしいんだけど」と首を傾げる。


いつもは佳奈子が全て決めてくれる(他人が悩んでるのを待てないだけな気もしてる)けど、大事なことはちゃんと相手の気持ちを汲み取ってくれる。

たとえそれが前向きな答えじゃなかったとしても。

そういう優しさに何度も救われてきたのだ。




「3年もブランクがあるし未経験の業種だから佳奈子とか他の人たちに迷惑たくさんかけてしまうかもしれませんが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」




椅子から立ち上がり、頭を下げた。


顔を上げると綺麗なまつげをパチパチさせ「こちらこそ、よろしくお願いします」と私の好きな笑顔を見せてくれた。












すぐにでも働いてほしいけど色々準備もあるだろうからと初出勤を次の月曜日に調整してくれた。


確かに社会復帰するために色々準備もしたいし、心づもりもしておきたかった。

新しい環境で働くのに心のモヤモヤをそのままにしておきたくなかったから。


その日、家に着いてから1通のメールを送った。














《元気にしてますか?連絡をもらっていたのに、全然返事ができなくてごめんなさい。色々落ち着いたので少し話したいなと思って連絡しました。時間あるときでいいので返事もらえたら嬉しいです》

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